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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.242
2022年7月21日号
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◆今回の内容
○霊性について
・大地の霊性=日本的霊性
・霊性復活の先人たち
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霊性について
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前回は、根源神=根源的なるものとは何かといったことを考えました。結論としては、それは夏の炎天下に現れる逃げ水のようなもので、おぼろに見えてはいるのだれど、行けども行けども近づけない。しかし、振り返ってみれば、それに向かって進んできたおかげで、通り過ぎてきた景色の記憶の積み重なりが目指すものの全体像をおぼろげに示し、また、その道程にこそ意味があることをわからせてくれるようなものだと。
しかし、中には、「それでは何もわからない。もっと明確な答えが知りたいのだ」という人もいます。今は、ネットなどの言説で、安直な答えらしきものが溢れています。それに慣れてしまい、自分で<考え・悩む>ということができなくなり、直ちに明確な答えが出ないと我慢できない。そんな傾向が強まっている気がします。
「究極的なこと」、それは、つまり「根源神=根源的なるもの」。それを「わかった」と言ってしまうのは原理主義です。物事の原理がすべてわかったと思い込んだら、それは思考停止であり、自分を「神」と考えるのと同じことです。原理主義は排他的で、他者を自分の理屈と思想に屈服させようとします。それでは、答えからはどんどん遠ざかっていくばかりです。
産業革命以降、世界は、可視的な、可触的な、検出可能な物にしか価値を認めない唯物的な価値観で進んできました。それが経済を発展させてきたわけですが、一方で、そうした具体性を帯びていないものは存在しないものとされました。何でも安直な答えに飛びついてしまうというのは、そうした唯物的な思考の産物ともいえます。
大乗経典の一つである『観無量寿経』の第八像観想には、「是心作仏、是心是仏」という言葉があります。「是の心、仏と作り、 是の心、是れ仏なり (仏が外在するのではなく、この私の心が仏である)という意味です。『観無量寿経』は、大乗の思想を具体的な観想(瞑想)の段階を踏んで理解していくことを説くものですが、全十六像の観想のちょうど中間である第八像にこの境地に至ることが示されています。
第八像に到るまでの観想も長く、また、「是心作仏、是心是仏」の境地に至ってから最終的に「空」に落ち着くまでの観想の道程もとてつもなく長いものです。そこでようやく「空」の意味を漠然と悟ることになるわけですが、その第十六像観想に至ったとしても、それも答えではなく、出発点へと戻る連環を一回りしたにすぎない。だけれど、第八像観想に至れば、己の心の中に確かな炎が灯り、雑念に迷わされることなく進んでいく事ができる。そのように語っています。
「究極的なものは何か」という問いには、「それは永遠にわからない。しかし、そこに向かって進んでいくことはできる。その進んでいるという感覚こそが大切なのだ」と答えるしかないわけです。
エベレストに無酸素単独で登頂するために、二三日軽くジョギングして、エナジードリング飲んだからといって叶うはずがなく、そこへ至るまでには常人には考えられないような努力が必要であり、エベレストに登頂を果たしたからといって、それで終わりではないとでも例えればいいでしょうか。
なんだかかえってもやもやとしてしまいそうですが、これを考えていくことはとても大切なことだと思っています。様々な物事が刹那的になってきている今であるからこそ、とくにそう思うのです。
このまま漠然としていては、話は先に進みませんから、ここは先人の知恵を借りてみようと思います。
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