故郷へ戻ってきてから、いつもは鹿島灘の海岸沿いをランニングするのだが、昨日は週末の昼間でいつもの駐車場やボードウォークは混雑していることが予想できたので、北浦湖岸のコースにした。こちらは、起伏がなく単調で走っていてあまり楽しくない。
だけど、昨日はひょんな連れができて、不思議な楽しい時間を過ごせた。その連れというのは白鷺だ。彼(彼女?)は、はじめは、湖岸脇に広がる用水路で小魚を漁っていたのだが、どうやら満腹したようで、スッと優雅に舞い上がった。
そして、私の頭の上を数回旋回した後、堤防上を走る私の横を並行して飛びはじめた。向こうのほうがスピードが速いので、すぐに引き離されてしまうのだが、2,30メートル先まで行くと着地して、こっちが追いつくのを待っている。
私が追いついて少し先行すると、薄絹がそよ風に靡くように軽く舞い上がると並行してついてくる。長い首をひねって、ときどきこっちを向くので目が合う。鳥なので表情があるわけではないけれど、この状況を楽しんで笑っているように見える。からかわれているのだか、それとも真剣に遊んでいるのだか、いずれにしても、このしばしのランデブーはとても楽しかった。
後で気づいたのだが、そのあたりは古代から中世には「白鳥郷」と呼ばれたところだった。明治時代には白鳥村となり、昭和に入って上島村と合併して大洋村となり、さらに平成の合併で鉾田市に組み込まれた。白鳥郷の名残りは、白鳥山照明院大光寺、白鳥山普門寺という二つの寺院の山号に残るのみとなった。
伝説では、安倍貞任の弟の白鳥八郎則任(のりとう)の末裔が住んだことから白鳥郷と呼ばれるようになったという。安倍貞任は東国俘囚の長として朝廷に反旗を翻し、前九年の役で破れ、安倍氏は滅亡した。弟の則任もこの戦いの後に、都に送られる途中で自害したが、その家族は津軽に逃れて藤崎氏を名乗り、これが後に常陸国白鳥郷に移住したという。
常陸国は、もともと蝦夷の土地だった。これを大和朝廷が侵略して、東国侵略の拠点とした。その前線基地の役割を果たしたのが鹿島神宮で、『続日本紀』には、鹿島神宮が多くの蝦夷の奴隷を所有していたという記述がある。また、鹿島神宮の北東には「鬼塚」と呼ばれる丘があり、ここに蝦夷の棟梁の首を埋めたと伝えられる。
今でも、私の実家のあたりでは、鹿島神宮を忌み嫌い、けしてお参りしないという古くからの習慣を伝えている家があるが、それは、朝廷に征服され虐げられた蝦夷の血を引いているせいなのかもしれない。
その常陸蝦夷が安倍貞任の先祖だという説もある。白鳥伝説というと、ヤマトタケルが思い浮かぶが、これは元々蝦夷の信仰であり、さらには物部氏にも白鳥信仰があり、それを日本神話に取り入れたという説がある。
そうした説に従えば、白鳥(古代には、白鳥だけでなく白鷺や朱鷺なども含めて「白鳥(とらとり)」と称した)を神格化した信仰を持っていた蝦夷が常陸を本拠とし、それが追われて北へ移り、そこで朝廷と対抗する勢力となり、再び朝廷との戦いに破れてさらに北へ逃れ、世の中が落ち着いてから、本来の故郷である常陸へ戻ったものとも考えられる。
鹿島神宮の北には、大洗磯前神社、酒列磯前神社、大甕神社といった出雲系の神と東国の土着神と考えられるアラハバキ神を祀った神社がある。これらは、出雲+物部+蝦夷の信仰の痕跡を色濃く残している。
白鷺との楽しいひとときは、私が蝦夷や物部、出雲、鬼や御霊といった敗れ去ったものたちに惹かれるのは、私の血の中に白鳥を神と崇めた蝦夷の血が流れているせいなのだと告げていたのかもしれない。
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