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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.219
2021年8月5日号
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◆今回の内容
○呪法と祓い
・呪詛祓い
・陰陽道と密教の祓い
・祀り上げ
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呪法と祓い
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邪気や穢れを祓うとよくいいますが、その邪気や穢れというのは、いったい何なのでしょう?
「人が生きていくということは、動物や植物の命を奪うことになりそれが穢れとして溜まっていく。あるいは、先祖の悪業が子孫にとっての穢れとなる。また人間関係の軋轢の中で悪い感情が溜まっていって、それが邪気となる…」。などと言われたりしますが、いずれも観念の遊びのような話で、それが具体的にどんなカタチのモノなのかはわかりませんし、本当に存在するのかも怪しいものです。また、お祓いにしても、ただの形式のようにしか見えません。
ところが、「呪法」という観点からに立つと、これが非常に具体的なものとして見えてきます。なぜかというと、お祓いというのは、そもそもが呪法であり、掛けられた呪いを「振り祓う」ことをいうからです。
神話や昔話の多くは、人間に掛けられた呪いから話がはじまります。キリスト教のアダムとイブの話は蛇によって掛けられた呪いですし、日本神話もイザナキとイザナミの夫婦神によるこの世とあの世の境での呪詛合戦によって人間の儚い運命が決定づけられます。
イザナミは、火の神カグツチを生んで女陰を火傷したことが原因で亡くなり、黄泉の国へと落ちてしまいました。妻のイザナミが恋しいイザナキは、黄泉の国へと降りていき、イザナミを連れ帰ろうとします。
しかし、その途中で、振り返ってはいけない禁を犯して妻の姿を見てしまいます。腐り、蛆が湧いた変わり果てた妻の姿に驚いたイザナキは、妻を見捨てて一人で地上へ逃げ出します。イザナミは夫に裏切られた悔しさに激怒し、呪詛の言葉を吐きながら追って行きます。そして、この世とあの世の境である黄泉平坂で二神は対峙しました。
イザナミはイザナキに向かって「おまえの治めている国の人びとを一日に千人呪い殺してやる」と呪いを掛けました。これに対して、イザナキは「それならば、私は一日に人を千五百人産んでやる」と返します。人の命が儚いものとなってしまったのは、このイザナミの呪詛のためだと日本神話は語っているわけです。
天孫降臨神話では、自らを捨てたニニギに対して、イワナガヒメが「もしあの方が私を妻に迎えたならば、私の生まれてくる子に岩のような長寿を与えたのに、妹を妻にしてしまった。ならば、妹が産む子には木の花が移り落ちていくのと同じような命を与えてやろう」と呪い、ニニギの直系の子孫とされる天皇家も人と同じく儚い命になったとされます。
これはいわば根源的な「呪い」です。この呪いを発端として、人生には苦しみがつきものとなる。生きていれば、ただそのことだけで、あらゆる穢れや邪気が湧き出してくるというわけです。
この根源的な呪いを祓う方法はありませんが、そこから派生した様々な汚れや邪気を呪いの方法方法を使って祓おうというのが、お祓いです。ふだん我々が何気なく使う、「痛いの痛いの飛んでけ」とか「遠くの桑原、遠くの桑原」といった呪い(まじない)も、その名の通り呪い(のろい)なのです。
今回は、暑い夏に背筋がひんやりする話……というわけでもありませんが、普段、なにやらありがたいものとして考えられている「お祓い」を、その本質である呪いという観点から見てみようと思います。
●呪詛祓い●
民俗学者の小松和彦は、山深い高知県の物部村(ものべむら・現香美市物部町)で、長くフィールドワークを行い、この地に中世から伝わる「いざなぎ流」と呼ばれる陰陽道系の呪術を詳細に調査・記録しました。
その報告の中に、「すその取り分け」という儀礼が出てきます。「すそ」とは「呪詛」のことであり、また穢れをも意味します。村人の心身や村の空間に溜まった「すそ」を呪術によって丹念に集め、それを幣帛(みてぐら)に封じ込め、日本と唐土(中国)と天竺(インド)の境界上にあるとされる「すその御社」に送り流してしまうというものです。
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