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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.213
2021年5月6日号
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◆今回の内容
○道教と日本の信仰 その2
・閻魔様と社寺
・道教と陰陽道
・道教由来の神々と信仰
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道教と日本の信仰 その2
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前回は道教と日本の信仰シーンとの類似性について、大まかに触れましたが、今回は少し具体的にそれを見ていきたいと思います。
●閻魔様と社寺●
日本で道教の影響をもっとも強く受けているのは陰陽道です。中世初期に完成した陰陽道は、道教の落とし子といっても過言ではありません。そして、神道や密教はその陰陽道も取り入れていますので、当然、道教の色彩を帯びることになります。
陰陽道のスーパースターといえば、安倍晴明を思い浮かべる人が多いでしょう。他にも、晴明のライバルとされた芦屋道満や晴明の師匠筋に当たる阿倍仲麻呂、吉備真備といった名前も挙げられます。また、京都の人なら、ここに小野篁(おののたかむら)を加えることでしょう。
小野篁は、昼間は朝廷で官吏をしつつ、夜になると冥府に降りていって閻魔大王の右腕として裁判の補佐をしていたという伝説が、『今昔物語集』や『江談抄』に取り上げられています。
篁は、京都東山にある六道珍皇寺の井戸から冥府に降り、今はなくなってしまいましたが、かつて嵯峨野にあったとと伝えられる福正寺の井戸からこの世に戻ってきたとされています。六道珍皇寺には閻魔堂があり、ここには篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が本尊として並置されています。
東京の下町入谷にある小野照崎神社は、主祭神を小野篁として相殿に菅原道真が祀られています。菅原道真は学問の神「天神様」として祀られることが多いのですが、道真も優秀な陰陽師でもあり、ここでの扱いは天神様ではなく篁と同じ陰陽師です。
道真は大宰府に左遷される前には讃岐の国司を勤めていましたが、讃岐には道真が陰陽道の儀式を行って雨を降らせたという伝説が多く残り、天神様や天神社としてではなく「菅原神社」という名で道真を祭神とする神社が多くあります。
小野照崎神社の歴史は古く、創建は仁寿2年(852)にこの地方の住民が今の寛永寺がある場所に篁を奉斎したのが起源と伝えられています。篁は802年に生まれ853年に没していますから、この社伝が本当だとすれば、篁の最晩年に創建されたことになります。いずれにせよ、篁の名が遠く東国にまで伝えられていたことがわかります。
江戸末期には、回向院にあった菅原道真自刻とされる木造が相殿に祀られ、「江戸二十五天神」の一つに数えられました。樋口一葉の「たけくらべ」にも「小野照さま」として登場する庶民に親しまれた社でした。
この神社は西面し、参道も西へと伸びています。今ではビルに遮られていますが、彼岸には旧地でもあった上野の山に日が沈み、その光が参道を伝って社伝を照らすのが見えたことでしょう。これは、西方浄土=冥府とつながる場所であるということを意味しています。また、社殿の北には富士塚がありますが、この富士は「不死」に通じ、ここに登れば、地獄の沙汰を逃れて長生きできるという意味があります。
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