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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.184
2020年2月20日号
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◆今回の内容
○黄門様と巨石
・宇宙から見えたパワースポット?
・光圀の巨石信仰の意味
◯お知らせ
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黄門様と巨石
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先日、東国三社と奥東国三社を巡るツアーのアテンドをさせていただきました。
東国三社は記紀神話中の「国譲り神話」のエピソードに登場する三神、タケミカヅチ、フツヌシ、アメノトリフネを祀った鹿島神宮、香取神宮、息栖神社を指し、茨城県南部から利根川を挟んで千葉県側に跨り、それぞれが10kmあまりの距離を隔てて立地しています。かつてその配列は大地に正三角形を描いていたと伝えられています。
奥東国三社という名称は、じつは存在しません。これは私の造語で、性格的に東国三社と対峙する茨城県内の三つの神社を勝手に「奥東国三社」と呼んでいるのです。具体的には、大洗磯前神社(おおあらいいそざきじんじゃ)、酒列磯前神社(さかつらいそざきじんじゃ)、大甕神社(おおみかじんじゃ)の三つを指します。
東国三社が大和朝廷の東国進出の足掛かりであったのに対して、その北方にあって、対峙するような形で立地している出雲・蝦夷系の祭神を祀る神社です。レイライン的な見方をすれば、蝦夷を威嚇するように北を向いた鹿島神宮の本殿の向き合う先に奥東国三社は立地しています。
大洗磯前神社と酒列磯前神社の祭神はそれぞれオオクニヌシとスクナビコナで、出雲系の神社です。大甕神社は主祭神を天孫系のタケハヅチとしていますが、併祭される地主神ミカボシカガセオ(アマツミカボシ)のほうから「甕=ミカ」の名がとられていることや、社殿の背後にあるご神体山ともいえる宿魂石そのものがミカボシカガセオとして神聖視されていることから、本来はこちらが主祭神であったと考えられます。
ミカボシカガセオはオオクニヌシの別名とも言われますが、わざわざミカボシカガセオとするのは東国=東北に特徴的で、蝦夷が信仰した石神と出雲から伝わってきたオオクニヌシの信仰が習合したものと考えられます。
『日本書紀』神代には、鹿島神宮の祭神タケミカヅチと香取神宮の祭神フツヌシが東国の邪神をほとんど平定したものの、ミカボシカガセオは最後まで抵抗を続け、タケミカヅチが打ち破られてしまったために、タケハヅチが遣わされたとあります。タケハヅチと対峙したミカボシカガセオは、石名坂の峠にあって、巨大な石の姿となり、押しつぶそうとしたものの、タケハヅチが鉄の靴を履いて蹴ったために砕けて、大小の岩が累々と重なる宿魂石てなり、欠片のひとつは河原子の浜(日立市)に、もう一つは石神(東海村)に落ちたとされています。
古代の蝦夷は、現在の鹿島神宮近くまでを勢力範囲にしていました。鹿島に上陸した朝廷軍は、まずこれを平定します。鹿島神宮の北東には境外禁足地の「鬼塚」がありますが、これがそのときに滅ぼされた蝦夷の頭領の首を埋めたところです。その後、蝦夷の勢力は徐々に北へと後退していきました。
そして、常陸国=茨城県内で最後の大規模な抵抗を試みたのが大甕神社付近でした。大甕神社の宿魂石は、「石」とはいいながら、立派な岩山です。この岩山からはかつては海岸を間近に眺め下ろせましたから、蝦夷岩城を築いて拠点としていたのでしょう。ここで朝廷軍と蝦夷軍がぶつかり合い、破れた蝦夷軍の頭領の首が宿魂石の頂上に安置されたというのが実相だと考えられます。
東国三社の鹿島神宮と香取神宮には、宿魂石同様に蝦夷の巨石信仰を伝える要石があります。前置きが少し長くなりましたが、今回は、そんな蝦夷由来の巨石信仰に注目した人物にフォーカスし、古代から近世にかけての東国の巨石信仰の意味を掘り下げてみようと思います。
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