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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.311
2025年6月5日号
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◆今回の内容
○日本庭園に秘められた聖地性の系譜 その1
・祈りの景観 ― ストーンサークルから古墳まで
・路子工が築いた飛鳥の造園とその神性
・平城京の庭園に見る唐風の伝来
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日本庭園に秘められた聖地性の系譜 その1
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この講座の277回「聖地としての日本庭園」では、日本庭園の設計思想に聖地と同様の方位観や自然観があり、日本庭園自体が聖地を具現化したひとつの形といえるという点を掘り下げ、実際に私が巡った日本庭園の例を紹介しました。
これ以降、日本庭園も重要な聖地学の対象と位置づけてきたのですが、数ヶ月前に、荒廃した文化財を修復整備するプロジェクトに関わりはじめ、さらに本格的に日本庭園と向き合うことになりました。
そのプロジェクトの物件には、付帯する日本庭園があります。これを手がけたのは、小川治兵衛という明治から昭和にかけて活躍した作庭家でした。小川治兵衛は、それまでの作庭が風水や陰陽道、それに禅思想などを基礎として日本独自の発展を遂げてきた日本庭園に、あらたに西洋的なエッセンスを加え、旧来の日本庭園が持っていた聖地性や霊性をより拡張しました。
そんなことから、日本庭園に込められた思想とそれが体現する構造を、太古まで遡って聖地性の観点から捉え直し、それが時代ごとにどのように変化し、小川治兵衛の時代にはどのように考えられていたのかを表出させて、その連続性を失わない形でプロジェクトに反映させるためにはどんなコンセプトを据えればいいのかといったことを考えているのです。そんな作業をしている中で、ふと思い出したことがありました。それは、世界遺産にも指定されている平泉の毛越寺庭園での出来事でした。
もう40数年前、私がまだ二十歳そこそこだった頃、オートバイで気ままに東北を巡っていました。ある日の夕方、目についた毛越寺の宿坊の門を潜りました。世界遺産に指定されて、インバウンドの客も押し寄せる今では想像もつきませんが、まだのんびりとした時代で、季節外れということもあって宿泊者は私一人きりでした。ちなみに、宿坊は今はなくなってしまいました。
そのとき、住職が部屋まで案内して、「夜になったら寺の門は閉めるけれど、お客さんは園内を自由に歩いてもらってかまわないですよ。せっかくの月夜だから、ここの浄土式庭園をぜひ散策してみてください」と言ってくれました。月夜の庭園を散策なんて、若かった私にはそんな風雅な趣向への関心もわかなかったのですが、住職がせっかくああ言ってくれたのだからと、夕食をすませてから宿坊の下駄を突っかけて表に出てみました。
当然、日本庭園がどんなものかも、また、毛越寺の「浄土式庭園」というものが、何を表現し、他の日本庭園とどう違うのかもまったく知らず、自然風景をミニチュアにして庭に模した貴族趣味としか思っていませんでした。しかし、私は、十代の頃から山登りをしていて、自然の風景の中に身を置くのがとても好きでしたし、月夜に浮かび上がる稜線のシルエットと広大で奥行きのある星空の迫力に圧倒されたことも何度もあったので、北東北の自然の香りが濃厚な寺の境内の夜の散策は、それなりに楽しみでした。
月夜に蒼く浮かび上がった庭園は、それまで私が出会った夜の自然風景とはまったく違うものでした。それは、超自然的な世界か幻のようで、底のない深淵に魂が引きずり込まれていくような感覚に圧倒されました。そして、呆然としたまま、長い時間立ちつくしていました。
翌朝、まだ日が昇ったばかりの時間に同じ場所に立つと、まったく逆の印象を受けました。ゆったりと渡る風や、池の水面に揺れる光を体で感じることで、代わりに自分の内側からいろいろな感覚が湧き上がってくるような気がしたのです。そのとき、日本庭園は、ただ景色を愛でるために、自然風景を引き写してミニマルに表現したものではなく、時間の移ろいとともに「超自然」を体験させる装置なのだと思いました。
このときの旅では、中尊寺の薪能にも出くわしました。今のように客席が設えられていたりせず、地元の人と寺院の関係者だけが中尊寺の境内に三々五々集うだけの素朴な催しでした。静謐な森に夜の帳が降りると、薪に火が入れられ、その火が回って時々薪が爆ぜはじめると、それを合図にするように、謡がはじまりました。
このとき、生まれて初めて能を観たのですが、風に揺れる木々の音と、炎に揺らぐ舞台の影が、抑えられつつも深みのある能の抑揚のリズムとシンクロして、自然に「夢幻」という言葉が浮かんできました。そして、月夜に浮かぶ毛越寺の庭園は、この薪能に繋がっているのだと強く思いました。それは、「幻」の世界で繋がっているのだと。今にして思えば、あれが、私にとって強烈な「聖性」の体験であり、聖地と能や日本庭園が同じ基層の上にあるものだと確信したきっかけだったのだと思います。
毛越寺の庭園は、平安時代末期に末法思想が蔓延した際に、平安京で多く造営された阿弥陀如来の極楽浄土を具現する目的で作られた浄土式庭園を模したものと言われます。また、堂宇などは鎮護国家を目的に白河天皇が造営した法勝寺をモデルにしているともいわれます。同じ平泉にある無量光院跡も同じ浄土式庭園で、藤原秀衡が造営したこの庭園は宇治の平等院を模したものでありながら、平等院を上回る綺羅びやかな寺院だったと伝えられています。
平泉の栄華を築いた奥州藤原氏は、源頼朝の義経追討軍によって滅ぼされますが、頼朝はこの討伐戦で亡くなった弟義経と藤原泰衡の怨念と戦死者たちの魂を鎮めるために、鎌倉に永福寺(ようふくじ)を開きました。今では、その痕跡が僅かに残るだけですが、中尊寺二階大堂などを模したことから、「二階堂」という地名となって残っています。その堂宇の前面には広大な浄土式庭園が設けられていましたが、これは無量光院と毛越寺の庭園を参考にしたといわれています。
今から10年ほど前、講座を持っていた朝日カルチャーセンター湘南教室で、鎌倉の結界を巡る野外講座を開いたことがありました。そのとき、鎌倉宮から鶴岡八幡宮へ向かって西へ歩いていくはずが、なぜか逆の東に引き寄せられるように向かい、道に迷って広いススキの原に出てしまいました。鎌倉の山間は、「谷地(やち)」と呼ばれる狭い谷を形成しているのですが、その一角だけ開けて、谷地の風景には似つかわしくないススキの原になっているのが不思議でした。
そこで、道に迷って引き返そうとしたとき、参加者の一人Cさんが傍らにあった看板を見て、「私、ずっと前からここに来てみたかったんです! まるで、ここに呼ばれてきたようですね!!」と興奮して言いました。看板には「永福寺跡」とあり、解説とともに予想復元図が添えられていました。その復元図を見て、私はデジャヴュを感じました。そして、少し考えて、それが平泉で出会った懐かしい光景であることに気づきました。
40年前の旅の目的のひとつは、義経の史跡を巡ることだったのですが、長い時を経て、ここで義経の魂に再び出会うことになったわけです。Cさんが感動して言ったように、私も時空を超えてここに呼ばれたんだなと思わされたのです。
前置きがだいぶ長くなりましたが、本題に立ち戻り、今回は日本庭園の成り立ちと、その聖地との関わり、そこに見えてくる日本文化の基層を概観してみたいと思います。
●祈りの景観 ― ストーンサークルから古墳まで●
いったい、日本庭園のルーツはどのあたりの時代にあるのでしょうか。様式として確立されたのは、平安時代の書院造りに付随した庭園あたりと考えられますが、それ以前、あるいは書院造の前進といえるような形態はなかったのでしょうか。それをまずは太古にまで遡って見てみましょう。
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