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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.173
2019年9月5日号
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◆今回の内容
○聖地と観光
・「観光」の意味
・観光と観音
◯お知らせ
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聖地と観光
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8月31日と9月1日の両日、福島県いわき市にある閼伽井嶽薬師・常福寺の例大祭に参列してきました。
31日は、聖地を紹介するプロモーションビデオの完成披露の講演がいわき市内であり、それを終えてから、閼伽井嶽山頂近くにある常福寺まで移動しました。常福寺では、春分と秋分に、朝日が参道を真っ直ぐ進んで薬師堂に差し込む光景が見られます。この二分のご来光を拝むツアーでは何度もご厄介になっていて、いわば馴染みの場所なのですが、夜に訪れるとまったく雰囲気が異なります。
早朝の境内は、山寺らしく爽やかな空気に賑やかな鳥の声が響き渡り、真っ先に一日が始まる活気が山全体から発散されるのを感じます。いっぽう、宵の境内はしっとりとした空気に包まれ、闇が重く横たわっているように感じられます。その闇の中、参道から急な階段から薬師堂まで、さらに階段の途中から迂回する観音巡りの参道にも万燈会の燈明が並べられています。それは、闇を照らす明かりというよりも、闇に溶け込み、闇の一部となって、白日の下では感じられない気配を炎の揺らめきで伝えている装置のように見えます。常福寺は、海からここまで龍燈という陰火が昇ってきたという伝説が残る場所でもありますが、ふと、この境内に並ぶ燈明は龍燈そのものなのではないかという思いが過ります。
両側に燈明が揺れる階段を登っていくと、なぜか登っているのではなく深い闇の底、冥界へと降りていっているような逆転した感覚に囚われてきます。何度か立ち止まって階段の上を見上げても、闇へ降りていく感覚が強くなってきます。
薬師堂まで登り詰め、そこで、自分が間違いなく現実の風景の中に足を置いていることを確かめて、ホッとしました。しばらく待っていると、手持ち鐘の透き通る音とともに、住職の一行が登ってきました。薬師堂の前に並んだ一行が般若心経を唱和し始めると、聲明が闇に沈んだ森の中で木霊し、参道に並ぶ燈明がそれに靡くように揺れます。
こうした深い森の中に響き渡る聲明や祝詞は、自然そのものに何かの作用を及ぼして、場の空気を一変させるような気がするものですが、閼伽井嶽の森に響き渡る般若心経は、あたりを秋の気配に切り替えたようでした。
住職の一行が降りていくと、入れ替わりに、じゃんがら念仏踊りの連が鉦と太鼓を鳴らしながら参道を登ってきます。お盆にこの世に訪れた先祖を迎えられたことを寿ぎ、秋風が吹き始めた今、あの世に去っていく先祖を送る、そんな詠歌とともに打ち鳴らされる太鼓と鉦は、どこか物悲しく、季節の切り替わった夜にしみこんでゆきました。
翌9月1日は、柴灯護摩の儀式に参列しました。山伏が境内に参集し、盛大に護摩が焚かれます。渦を巻いて閼伽井嶽の山全体を包み込んでいく浄化の煙、そして、その後に立ち上る破魔の力を漲らせる昇龍のごとき紅蓮の炎。東は彼方の海まで開け、背後には閼伽井嶽を前衛とした阿武隈の山並みが続いていくこの場所は、龍燈が海から遡上してくるだけでなく、海から吹き寄せる風が谷に集中して、一気に上昇気流となって吹き上げる、常に見えない昇竜がここにはいるのです。
護摩の火はあっという間に燃え尽き、この祭儀を締めくくる火渡りの儀となりました。これに私も参加させていただきました。この数年、いわきで行ってきた聖地調査を思い出しながら、しっかりと熾火を踏みしめ、最後に、いつもお世話になっている上野宅正住職からお祓いしていただくと、また、新たな気持で聖地を探索していこうという意欲が湧いてきました。
そして、火を渡りきった瞬間、この二日間の体験がフラッシュバックして、「聖地と観光」というテーマが思い浮かんできました。
常福寺は、二分(春分と秋分)の太陽という光、龍燈という光、さらに万燈の光、柴灯護摩の紅蓮の炎という光もある。ここは、「観光」という言葉をまさに体現する場所であり、そもそも聖地には「光」の属性が本来的に備わっていることに気づいたのです。
●「観光」の意味
「観光」という言葉は、とても身近な言葉として使われていますが、その本来の意味をご存知でしょうか。
観光という言葉は、易経の「国の光を観る、もって王に賓たるに利(さと)し」という記述に由来します。国王が国見の丘に立って、国の威光を観察するという意味です。
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