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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.163
2019年4月4日号
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◆今回の内容
◯どうして「地獄」は生まれたのか?
・閻魔大王は善神だった
・果てしない輪廻が意味するもの
・民族的特性
◯お知らせ
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どうして「地獄」は生まれたのか?
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聖地というものは、この世にある特別な場所というだけでなく、そこが異界と結びついていて、普段、私たちには見えたり理解したりできない「何か」を感得したり、啓示やご利益を得られる場所であると考えられています。
その聖地が繋がる「異界」は、どんなところなのでしょう。「異界」という言葉からイメージするのは、天国と地獄、極楽浄土と地獄、天上界と冥界、天上の神々の世界と黄泉の国といった善悪二つの二元的世界ではないでしょうか。
一昨年の10月、私はNHKの"さし旅"という番組で、タレントの指原莉乃さんと都内の聖地巡りをしましたが、その中で、東京の下町、入谷にある小野照崎神社を訪ねました。ここは、小野篁(おののたかむら)を祭神として祀っていますが、小野篁といえば、この世と地獄を自由に行き来し、昼間は朝廷に仕え、夜は地獄へと続く井戸を降りて、閻魔大王の側に控えて裁判の補佐をしていたと伝説に語られています。
小野篁伝説のように明確に「地獄」がイメージされたのは、日本では仏教が普及し始めた6世紀以降のことです。それは、極楽浄土とセットになっていて、この世で善行を積めば極楽浄土へ上ることができ、悪行を積めば地獄に落ちて、悪行の度合いに応じた責め苦が待っているとされました。小野篁は、地獄の関門にいて、そこに落ちてきた人間の悪行を審査し、どんな責め苦がふさわしいか閻魔大王にアドバイスしていたわけです。しかし、そうした仏教的な二元論が入ってくる以前は、自然信仰や山岳信仰が主流で、明確な地獄のイメージも極楽浄土のイメージもありませんでした。
前々回の161回では「御霊信仰」をテーマにしましたが、御霊として祀られた怨霊も仏教的な地獄に落ちて、怨霊や鬼となったのではなく、浮かばれぬ魂が怨霊となって、この世に留まり、それが祟りをなすと考えられていました。その世界観は、天国と地獄という二元論的なものではなく、この世とあの世が相互に嵌入しているような、「万物霊」の世界、アニミズムに近いものです。それは、縄文的な世界観ともいえます。
今、世界中の宗教を見渡してみると、それぞれに信奉する神や教義、祭式は異なりますが、天国と地獄という二元論的世界観は共通しています。では、そうした二元論的世界観、とくに地獄のイメージは、いったいどうして生み出されたのでしょうか。
●閻魔大王は善神だった
冒頭、小野篁の話を書きましたが、小野篁が夜になると仕えた閻魔大王は、バラモンの権威が確立する以前はインド土着の神の一つでした。バラモン教普及以前のインドでは自然信仰的な色彩が強く、死者の魂は天上に登って、ヤマ天のいる国に生まれ変わると説かれていました。このヤマ天とは閻魔大王のことです。
ヤマ天は地獄の主ではなく…そもそもバラモン以前には地獄という観念がありませんでしたが…天国に座する有力な一神格でした。ヤマ天にはヤミという妹にして妻である女神が寄り添っていました。死者の霊魂は、天国に登ると、美しい樹林の中にいるヤマ天の元に導かれ、そこでヤマ天と女神ヤミに見守られながら、柔らかい日差しを浴びて寛いでいるうちに、下界で火葬にされた体を取り戻し、同様に体を取り戻して天国に暮らす祖霊たちと合流し、法悦と歓喜に包まれて永遠の魂を獲得するとされたのでした。この伝承からは、ヤマ天と閻魔大王との間に共通する性格は微塵もみられません。
インドの民間信仰には、天国はあっても地獄という概念は存在しませんでした。死者は、ただ水を注ぎ掛けられるか、火葬されて川か海にその灰が流されれば、そのまま祖霊の暮らす天上に行くと素朴に信じられてきました。
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