□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.161
2019年3月7日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
◯御霊信仰 --怨霊を守護神にする日本独特の信仰--
・朝廷がもっとも恐れた崇徳帝の怨霊
・天神さま
・御霊信仰のルーツ
◯お知らせ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
御霊信仰 --怨霊を守護神にする日本独特の信仰--
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
先週の土曜日、3月2日は若狭のお水送りでした。お水送りの儀式をクライマックスに、若狭に伝わる不老不死の伝説ゆかりの地を巡るツアーも、今年で14年目。年々、参加してくださる方が増えて、今年は40人近くの大所帯になりました。
土曜日で、例年になく穏やかな日だったこともあり、行事への参加者もここ数年で一番多く、鄙びた夜の里に手松明の長い行列が光の川を作る様は、いつにも増して幻想的でした。
その翌日、火祭りの余韻も冷めやらぬまま、このツアーの主催者でもある若狭の宿・湖上館パムコの館主田辺さんと、宿の前に広がる水月湖でも何か光のページェントのようなイベントができないかと話していたら、昔は、お盆になるとこの湖で灯籠流しが行われ、きれいだったとのこと。それをぜひとも復活させたいねと盛り上がりました。
お水送りは若狭に春を呼ぶ火祭りですが、同じ若狭で灯籠流しが復活すれば、こちらは過ぎ行く夏を思い秋の到来を告げる火祭りとなるはずです。
同じ火祭りでも、お水送りは十一面観音に若水を捧げ、それをいただく清々しく透明感のある祭りですが、灯篭流しはどこかうら寂しいひっそりとした印象を与えます。それは、灯篭流しという風習が彼岸の先祖を思うだけでなく、さらにその根底に日本人独特の心性ともいえる御霊信仰を呼び覚ますからかもしれません。亡き人の生前を思い浮かべ、さらにはこの世に未練を残して彼岸へと去っていった人を思い起こし、その気持に寄り添う。そんな感覚は、日本独自のものなのです。
●朝廷がもっとも恐れた崇徳帝の怨霊
松山の 波に流れて 来し舟の やがて空しく なりにけるかな
松山の 波の景色は 変らじを かたなく君は なりましにけり
この二首は、西行が讃岐の崇徳院の御陵を訪ねた際に詠んだものです。崇徳院は保元の乱に破れて、天皇経験者としては異例ともいえる流罪になりました。歌にある松山とは、松山の津と呼ばれていた港で、今の香川県坂出市にあります。今は海水面が下がったために、海から少し離れた陸になっています。その松山の津を見下ろすように、五色台の中腹に崇徳帝の御陵があります。
讃岐へ配流された崇徳帝は、この松山の津から上陸し、讃岐で8年間暮らしました。その間、何度も都へ文を出して、免罪を請いましたが許されず、帰京を諦めて、せめて保元の乱の犠牲者たちの魂を弔いたいと、したためた経文を送りますが、これも受理されず、悲憤のもとに亡くなります。
西行は北面の武士として朝廷に仕えているときに、歳近い崇徳帝と歌を通して親しくなりました。保元の乱に敗れて崇徳帝が都の片隅に幽閉されているときにも、密かにその元を訪ね、話し相手になりました。崇徳帝が讃岐へ配流され、46歳の短い生涯を終えた後、その縁の場所を訪れて詠んだのが、先の二首でした。
「讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたも無かりければ……白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん」
西行は悲憤のうちに亡くなった崇徳帝の思いを汲み取り、魂の鎮魂を願ったのでした。
>>>>>続きは「聖地学講座メールマガジン」で
初月の二回分は無料で購読いただけます。
コメント