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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.136
2018年2月15日号
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◆今回の内容
◯京都・洛北の結界 後編
・平城京から長岡京、そして平安京へ
・洛北に隠されたもの
・桓武天皇の本当の意図
◯お知らせ
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京都=洛北の結界 後編
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前回は、上賀茂神社の構造を中心に話を進めましたが、今回は、その上賀茂神社が一つの要となって形作られる結界と平安京=京都という都の配置から、そこに隠された意味を読み取ってみたいと思います。
まずは、平安京成立前後の歴史を「怨霊史観」ともいえる観点から眺めてみましょう。
●平城京から長岡京、そして平安京へ●
奈良時代の末期、都である平城京の政情は混乱を極めていました。親子兄弟での皇位争いに有力貴族の勢力争いが加わり、さまざまな謀略や血なまぐさい暗殺が繰り返され、さらに後に「南都六宗」と呼ばれることになる奈良仏教が強大な勢力を持って、政界に強い影響を及ぼしていました。
そういった時代の中で、法相宗の僧であった道教が称徳天皇に取り入り、朝廷内部でも絶大な力を得て、宇佐八幡宮が道鏡を天皇にするれば天下が平和になるという託宣をもたらして、あわや道教に皇位が移りそうになった「宇佐八幡宮神託事件」まで勃発しました。
宇佐八幡宮の神託は、捏造であったことが発覚し、道鏡は朝廷から追放されましたが、朝廷はこの事件を機に、奈良仏教勢力への警戒を強めていきます。そして、天応元年(781)に、光仁天皇の後を継いで恒武天皇が即位すると、彼は奈良仏教の朝廷への影響力を排除するために、遷都を計画します。
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現代に残る肖像画の桓武天皇は、衣冠束帯の日本式の朝廷装束ではなく唐風の装束に身を包み、中華風の玉座に座っています。一見すると、中国皇帝の肖像のように見えますが、それもそのはずで、恒武天皇は"唐かぶれ"と言ってもいいほど唐にあこがれ、政治や文化の面でも唐を範としたのです。そして、中国における当時の最先端科学ともいえる風水や道教の知識も積極的に吸収していきました。
恒武天皇の遷都計画は、即位後直ちに発動され、3年後の延暦3年(784)には、長岡京への遷都が行われました。平城京から政治の中心を長岡京に移し、仏教勢力を平城京に置き去りにすることで仏教界の政治介入を削ぐと同時に、自分の抵抗勢力も粛清して、権力基盤を確実なものにするという一挙両得ともいえる戦略でした。
さらには、"唐かぶれ"の桓武天皇らしく、遷都には中国の"天命思想"に基づいた観念的な意味合いもありました。天の命によって選ばれた新しい天子は、天に代わってすべてを刷新する権利を持ちます。それは権利であると同時に義務でもあり、新しい天子はあらゆることを刷新して王朝に新たな息吹をもたらすことで永い繁栄の礎とするというのが天命思想です。長岡新都の創建は、そんな天命思想の体現する意味も持っていたのです。
現在の長岡京市と向日市にまたがる長岡京は、東西4.3㎞、南北5.3㎞の大規模な都市でした。平安京も長岡京に習って造営されたので規模はほとんど同じです。長岡京は、背後を西山と北山に守られ、前面には桂川、宇治川、木津川の三川が流れ、南には沼沢地が広がり、西には大山崎の街道が走っています。それぞれが玄武、青龍、朱雀、白虎の四神に対応した"四神相応"の風水的に理想の地形の場所でした。
最近の風水の解説書などでは、平安京が"四神相応"の理想的な場所だと紹介されていますが、地形的な要素に限ってみれば、四神それぞれがよりはっきりした形態をとり、それぞれが都に接近している長岡京のほうが、より風水的に理想に近い条件を持っていたといえます。
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