昨日の夜に放映されたNHK「さし旅」では、登場時間はほんのわずかだったけれど、驚くほど反響をいただいて、さすがにNHK地上波は違うなと唸らされた。もっとも、ゲストが4人で、それぞれのコメントはごくわずかな時間だったので、話の内容がどうのというよりは、NHKに登場したことと指原さんと一緒だったのがすごいねという反応だったけれど(笑)
実際のロケは丸一日で、中身も濃かったので、1時間にするか30分を二回に分けるかできたら、もっと面白いのではと思うけれど、公共放送でそれだけの枠を取るのは、なかなか難しいのでしょう。
それはさておき、「レギュラー番組になるといいですね、指原さん。応援しています!」
ところで、番組では主に神田明神と小野照崎神社を取り上げたが、この二社について、レイライン的(方角マニア的)な観点から、少し掘り下げて紹介してみたいと思う。
まず神田明神は、正式には「神田神社」で、主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)で、これに平将門が合祀される形になっている。ただし、「神田明神」と呼ぶ場合の主祭神は平将門になる。
大己貴命と少彦名命は大地の開闢神としてともに祭神とされることが多いが、これに平将門が合祀されるのはここしかない。じつは、神田明神はもともと江戸城内に祀られていたもので、三代家光の時代に、城の拡張が行われたのを機に現在の場所に移されたという経緯がある。それまで、この場所は、徳川家康が江戸へ入部する前にここを支配していた江戸氏が産土神を祀っていた場所だった。その産土神は神田神社の背後に江戸神社として残されている。
神田明神は、通常の神社が南面するのと違って、やや西に傾いた方向を本殿と拝殿が向き、参道もその方向へ伸びている。その延長上には江戸城の本丸跡がぴったり位置している。さらには、かつて江戸城内にあった平将門を祀った社も同じ方向になる。
江戸城の本丸跡から見ると、北東の鬼門方向にあたるが、これは、そもそも江戸神社が江戸城の鬼門封じの意味を持っていたことを示している。ここに武家の守護神に見立てた平将門の霊を配置することで、さらに鬼門封じの力を強めようとしたともとれる。こうしたグランドデザインは、天海僧正が三代家光に進言して実現されたと伝えられている。日光東照宮を築いて、徳川家康を関八州の守護神に見立てたあの天海だ。
平将門は、公然と大和朝廷に対して反旗を翻し、東国に独立王国を樹立することを目指して「新王」を名乗った。天海は江戸幕府という武士政権が長く続くことを祈念して、東国武士の象徴でもある将門を守護神としたのだろう。将門といえば大手町にある首塚が有名だが、神田明神に祀られているのは将門の胴であり、将門の「体」を祀った場所だから、そこは「カラダ」と呼ばれ、後にそれが訛って「カンダ=神田」と呼ばれるようになったという説もある。
将門は、首と胴以外に、手足や、身につけていた兜や具足などがバラバラに祀られていて、それを祀った社祠を結ぶと江戸城の北側に北斗七星が現れる。北斗七星は、北極星を中心に天空で円を描き、北極星とともに宇宙を統べるという「北辰妙見信仰」の象徴でもある。天海は、江戸城本丸を北極星として、それを守る北斗七星を配置し、それが遠く御所のある京都の北から睨みをきかせて公家を押さえ、武家政権が続くように祈念したのかもしれない。明治維新後、京都を首都とするのではなく、東京を首都として皇居が京都から東京に移されたのは、江戸が陰陽道的に完成された構造をしていたため、これをそのまま利用しようという意図に基づいたものだったかもしれない。
江戸城の北側に北斗七星を描き出す将門の社と神田明神の方位除けの護符
神田明神には方位除けの護符があるが、これはまさに将門にあやかったもので、四神相応を表す黒青白赤の四色の護符を家の北東西南にそれぞれ配することで、魔除けとなるとされている。今は、派手なお守りに埋もれて片隅に隠れるように置かれている。
神田明神の背後のほうへ辿っていくと、上野駅のほど近く、下谷の一角にある小野照崎神社に突き当たる。ここも撮影で訪れたところだ。
小野照崎神社は、下町のビルの谷間にあって、一見したところ目立たないが、その境内に入ると、不思議な空間が広がっている。そこには、西を向いた本殿と拝殿があり、拝殿に向かってその左手にはかなり大きな富士塚がある。さらに右手に社務所があり、その向かいには三峯神社と御嶽神社が合祀されている。かなり修験道的な色彩が濃い神社だ。
ここには、主祭神として小野篁(おののたかむら)が祀られ、さらに菅原道真が合祀されている。小野篁は文武に優れ、歌人としても知られているが、何よりもっとも有名な伝説は、昼は朝廷で政務に当たり、夜は地獄に降りて閻魔大王の補佐をしていたというものだ。京都の六道珍皇寺には、小野篁が地獄へ降りるために使ったと伝えられる井戸もある。
神田明神のさらに北東に位置しているということは、ここも江戸城の鬼門封じの補完的な機能を果たしていることが想像できる。さらに、西向きの社殿は、上野寛永寺を正確に指しているが、これは、もともと小野照崎神社が現在の寛永寺の場所にあって、その旧地を向いているという意味と、小野篁が地獄=黄泉の国とこの世とを行き来したことを象徴して、西=西方浄土を指すという二重の意味を秘めている。
寛永寺も天海が江戸城の鬼門封じのために創建した寺であり、神田明神と小野照崎神社と合わせて、何重にも鬼門封じの結界が張られていたことがわかる。
戊辰戦争における江戸をめぐる最後の戦いは、上野山に立てこもった彰義隊と官軍の戦いだったが、彰義隊がここを決戦の場として選んだのは、上野山がまさに幾重にも張られた江戸城の結界の中心ともいえる場所だったからなのかもしれない。
江戸の歴史もレイライン的な観点から見ると、重層的に浮かび上がってくる。今度は二時間番組でできないだろうか……。
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