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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.127
2017年10月5日号
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◆今回の内容
◯土地と人との関わり
・穢土
・人のポテンシャル
・セヂとカゼ
◯お知らせ
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土地と人との関わり
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前回のお知らせでも触れましたが、四国の調査が本格的に再開となって、フィールドワークのデータをまとめたり、資料をあたって歴史を掘り下げたりしています。
そんな中、面白い発見がありました。それは、寺社の来歴に「大同二年」と「空海」というキーワードが頻出することです。四国の寺社の多くが、大同二年に空海によって創建されたとか、奈良時代に開かれて荒廃していたものを空海が再興したと伝えられているのです。
大同二年という年は、その前年の秋に空海が唐から戻り、筑紫に滞在していたとされています。また、大同元年は桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位した年でもあります。桓武が陰陽道に傾倒していたことは有名ですが、平城天皇は現実派であり、陰陽道重視の桓武の政策を見直して、むやみに託宣を行ったりすることを勅令によって禁止します。
空海は朝廷が定めた遣唐使の20年という期限を勝手に2年に短縮して戻ってきたところで、理解者である桓武を失い、密教に対する評価が低い平城天皇が即位したため、嵯峨天皇が即位して形勢が変わる4年後まで、筑紫で身を潜めていたと言われています。
空海は奈良の大学を出奔してから遣唐使に加わるまでの10年あまりの間の消息が不明であり、筑紫滞在中の4年間の足取りも不明ですが、その空白期間にまつわる伝説が数多くあります。
四国の寺社の来歴に、大同二年の空海が登場するというのは、筑紫と四国の近さや海運を考えるとリアリティがあります。
また、大同二年という年は、全国的に見ても寺社の創建や再興が相次いだ年であり、桓武から平城に移った際の政策転換と関係が深そうにも見えます。
この『大同二年の謎』はこれから継続して調べ、また試論を展開してみたいと思います。
四国の調査は、今は主に香川県内が中心なのですが、ここで特徴的なのは、高松藩の初代藩主である松平頼重が創建・再興した寺社が目立つことです。
松平頼重は徳川光圀の兄に当たりますが、光圀は兄を差し置いて自分が徳川御三家である水戸藩を継いだことを申し訳なく思い、互いの息子を交換してねじれを正したことで有名です。高松藩第九代藩主の頼恕(よりひろ)も出身は水戸藩で、高松藩と水戸藩は常に緊密な関係にありました。
拙著『レイラインハンター』では、光圀が自領内を広く見聞し、多くの寺社を創建・再興したことを紹介しました。その中にはレイライン=結界を意識したものも多く、光圀が陰陽道に造詣が深かったことを伺わせます。頼重と光圀は仲の良い兄弟であり、ずっと親交がありましたから、頼重が寺社を大切にしたのも同じような背景があるのでしょう。
頼重に関わる寺社は、400年余り経った今でも地域の尊崇を集め、手入れも行き届いて、香川県内の信仰風景を彩っています。
いっぽう、聖地の中には、由緒のある場所ながら長く廃れ、不気味な雰囲気に包まれているところもあります。延喜式内社に数えられ、つい最近まで賑わっていた形跡があるものの、参道も社殿も荒れ果て、さながらゴミ屋敷のような様相で、神域というよりも魑魅魍魎が跋扈する魔界のようになってしまった場所もあります。
聖地は、もともとその土地から立ち上る"気"が人に聖性を感じさせ、そこにいると敬虔な気分になれることから、社殿や堂宇が築かれた場所がほとんどです。ところが、どうしたわけか、その聖地に関わった人の影響によって、ますます"気"が強くなるところもあれば、逆に衰退して"不気味"になってしまうこともあるのです。さらにいえば、いったん廃れてしまった聖地が、空海や頼重のような人物が再興することで往時のように復活することもあるわけです。
今回は、"聖地"だけに限定せず、広く"土地"と"人"との関わりについて考察してみたいと思います。
【穢土】
最近読んだ『里山奇談』という本の中に、『穢土』というタイトルの短編がありました。
昆虫マニアの主人公が僻地に出かけ、虫取りに夢中になっている間にバスに乗り遅れて、田舎道を辿って駅へと向かう途中、林道の分岐に差し掛かり、ふと深山に吸い込まれていく林道のほうに行きかけます。そのとき一台の車が通りかかり、傍らに停まります。その車を運転していたのは、主人公と同じ昆虫マニアで、しばらく前にフィールドで出くわして二言三言話した相手でした。
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