「念仏は易きが故に一切に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。しかれば一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて本願としたまふか」
これは法然の『選択集(せんちゃくしゅう)』第三章の言葉だが、この言葉に浄土宗の思想の本質がすべて集約されている。
意訳すれば、「(阿弥陀如来の威光を信じ)念仏を唱えることは、簡単だからこそすべてに通用する。修行を行うことは難しく、凡夫や悪人には意味がない。だからこそ、誰へだてなくすべての人を極楽往生させるためには、難しいことは捨てて、簡単な方法を取ることが必要なのだ」となる。
法然は、この「あまねく衆生を救う」という思想によって浄土宗を打ち立て、その愛弟子である親鸞が、実践においてこれを不動の信念とした。そして、蓮如の代に浄土真宗は日本最大の仏教宗派となり、現代にまで続くことになる。
かなり大雑把な言い方をすると、平安仏教が国家鎮護を掲げ、修行を重視し、修行者が悟りに至る過程は自力本願を旨とするのに対して、鎌倉仏教は衆生救済を掲げ、救済つまり極楽往生に至るためには、ひたすら念仏を唱え阿弥陀仏の功徳にすがる他力本願を説いた。
個人的なことを言うと、自力本願の平安仏教の考え方は馴染みやすかったが、鎌倉仏教の他力本願という考え方は、そこにポピュリズムの臭いがして、どうも好きになれなかった。それは、ぼくが若いときから登山や個人でできるレースやスポーツに親しみ、山岳修験などに興味を持って、それらをストイックに実践していたので、平安仏教の自力本願という考え方にすでに馴染んでいたこともある。
自分は仏教者でも修行者でもないから、平安仏教=密教の奥義を極めて、国家鎮護を祈念しようなどという野望もないし、悟りを開こうとするつもりもなかったが、何か、新たな展望を開きたいと思ったら、苦しいことを経験して、それを乗り越える必要があると思い込んでいた。ところが、そうした姿勢は、結局きりがないことに気づき、もっと単純に物事を考えても良いのではないかと思うようになった。
そして、数年前から鎌倉仏教にも関心を持つようになり、日蓮や法然、親鸞など宗祖のことを調べはじめた。すると、一見ポピュリズムに思えた鎌倉仏教が、じつは奥深い思想を土台にしていることがわかってきた。なにかをただ単純に信じ、念じるという行為が、小賢しい理論を振りかざすことよりもずっと尊い。そして、念じることが大きな心の力を発動する。彼ら宗祖たちは、そんなことを突然思いついたわけではなく、長く深い思索の果てに、そこにたどり着いていた。そんなことを知って得心がいった。
とくに、本書の主人公ともいえる親鸞は、他の宗祖に比べても思索と苦悩の度合いが格段に大きな人だった。その人生の詳細を知ると、親鸞に対する同情と共感が湧き上がってくる。
鎌倉仏教の宗祖たちのほとんどが比叡山出身者であることは知られている。そして、いずれも叡山の学林でもとくに優れた学生(がくしょう)であり、将来を嘱望されていた。親鸞はその中でもとくに逸材であり、朝廷にも大きな力を発揮した天台座主慈円の愛弟子として、20年間叡山に学び、慈円の後を継ぐと誰もが考えていた。
しかし彼は29歳の時に突然出奔する。それもただ野に下っただけでなく、叡山とは正反対の衆生救済を唱える乞食坊主同然の法然のもとに飛び込んだ。
親鸞の生涯を書いてしまうとネタバレになってしまうので、ここでは触れないが、梅原猛は、本書で、親鸞の人間性を巧みに物語として浮き彫りにさせている。
タイトルにもなっている「四つの謎」とは、『出家の謎』『法然に入門した謎』『結婚の謎』『悪の自覚の謎』で、それを現在の真宗の本流である本願寺派が排斥する「正明伝」をガイドにフィールドワークしていくことで解き明かしていく。
こうした梅原の十八番ともいえるオルタナティヴなアプローチはいつも痛快だ。90歳で往生した親鸞と同い年になり、本書執筆を決心したとはじめに書いているが、先入観に囚われず、自由に発想を広げていくスタイルは、ますます冴えているように感じられる。
親鸞は源頼朝の甥ではなかったか、親鸞の唯一の妻とされる恵信尼の前に玉日という最初の妻がいたのではないか、自分の中の源氏の血を意識したことが悪の自覚として親鸞を苛んだのではないか…信憑性の高い様々な仮説とその検証は、最良の推理小説と言っても過言ではない魅力で読者を引っ張っていく。
本書を読んで、ますます鎌倉仏教の深淵を探りたくなってきた。
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