昭和31年2月、唐木順三は『滅びの感覚』という一文を記した。「侘び寂び」や「色即是空」というテーマを長年研究し、一種の諦念から出発する日本的哲学の完成者たちの精神に寄り添い、「日本的」なるものに世界のどこにもない独立した個性を見出したこの哲学者が老境に至って感じたものは、可能性を見出すことのできない『滅びの感覚』だった。
人間が核に代表される大量絶滅兵器を持つ以前は、どのように悲惨な戦火に見舞われても、灰燼の中から再び立ち上がってきた。たとえ一つの民族が絶滅しようとも、そのDNAは他の民族の血に混じり込み、血統を生きながらえさせた。
でも、全面的な核戦争後には……今ならそれよりももっと現実的な原子力施設の破局的事故も想定できる……人は細胞レベルまで破壊され、二度と同じ形態に蘇ることはない。また、人を生かしてきた文明や文化、自然もことごとく再起不能に破壊されるから、奇跡的に生き残ったとしても、私たちが馴染んできた「人間生活」を再び成り立たせることはできない。
繊細な精神世界を追求してきたこの哲学者には、繊細さを理解できない愚かな為政者が最終破壊兵器を持ったことに、どうしようもない絶望を感じたのだろう。
「末法澆季とか、世の末とか、カタストロフィとか、終末感とか、そういう類の考えや感じは、いままでの歴史の上にあった。しばしばあったといってよい。然しいままでに果たして滅びという感じはあったであろうか。ノアの洪水にしても、洪水そのもの、水そのものは滅びないという約束事の上のことである。終末論にしても、じつは来るべき世への誘いがすぐ裏にくっついていた。方丈記の作者のように人生を水の泡に例えてみても、かつ消えかつ結ぶ水そのものについては信用しているし、また末法の世で釈迦牟尼は姿を消して、後仏としての弥勒菩薩が控えていた。戦乱や天災の相次ぐ乱世澆季にあっても、山河大地は依然としている感じが従来の例であった。信仰にのがれるにしろ、造花自然に生を託するにしろ、また四大五蘊に託するにしろ、なにかしらのがれ託すべきものが残っていた。ここには滅びはない。滅びの感覚はない。
……本来空とか、空もまた空とか、また無とかいうものは、何かが残るという最後に残るものではあるまい。残るものは色か有であって、空や無ではあるまい。空や無が滅びのゆき場所ではもちろんない。空や無はそんな場所ではなく、色がすぐ空に、また逆に空がすぐ色に転ずるその転換自体が空とか無であろう……これがある形から他の形への変化ではないことは確かだ。変化でも転化でもないし、また転変の土台があっては滅びではない。壊滅してもまた救済の約束があればこれもまた滅びでないことはたしかだ」(『唐木順三ライブラリーⅢ』「滅びの感覚」)。
このところの科学界のニュースを見ていると、太陽系外惑星で地球環境に似た惑星が見つかったとか、次の地球の支配者がAIになるといった観測が強くなってきたりしているけれど、それは「滅び」を意識しはじめた人類が、最後の最後の「救済」を模索する姿なのかもしれないと思ってしまう。
シンギュラリティが「滅び」の前に訪れたとしたら、AIはその頭脳や記憶装置を放射線の影響を受けない地中深くに埋設したり、宇宙空間に置いて、知性の新しい形の進化を続けていこうと試みるのかもしれない。
それこそ『禁断の惑星』だ。
トランプという紛れもないジョーカーが大統領に就任する姿を見て、唐木順三の言葉がデジャヴュのように蘇った次第……。
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