この数年、『指針』の大切さをつくづく感じさせられている。とくに昨年は、古代の都市計画の指針が現代にまで大きな影響を残している事例にいくつも出合い、その思いを強くした。
周囲を見回すと、指針を意識して生きている人と、行き当たりばったりに生きている人の違いは歴然としている。指針を持っている人は、生きざまそのものに真っ直ぐ筋が通っていて、どんな結果でも人のせいにはしない。そして、失敗しても、次に活かす方法を考えて、必ず立ち直る。一方、指針なく生きている人は、人に影響されやすく、自分の意見をすぐに変える。そして、失敗を人のせいにして、何度でも同じ愚を繰り返す。
今の政治を見ると、これは後者のほうだ。被災地の復興や原発問題、さらに貧困問題、オリンピック、中央卸売市場の問題…どれもこれも、行き当たりばったりに指針なく動いているようにしか見えない。
古代や中世に造られた街が往時の雰囲気を残し、今でもその時代への郷愁を呼び覚ましてくれるのは、そこが明確な指針を持って造られているからだ。今のように、利権や利便性だけを求めてアメーバのように増殖していく街が1000年経った姿を想像するとゾッとする。
大きくパラダイムが変わる時代を迎えて、ここで国としての明確な指針を持てなければ、日本は世界から取り残されて惨めな後進国に成り下がるだろう。そして、指針のない人間は、「日本は本当は凄いんだ。こんな日本になったのは、外国の陰謀のせいだ」と、虚しく遠吠えし続けるだろう。
ぼくが指針としているのは、自分という存在が遠い過去と遠い未来の真ん中に位置しているというイメージだ。そうした時代の繋役としての自分が、どうすれば幸福な未来を作るために貢献できるかを常に考え、行動していきたい。
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