現代の下町の象徴となった東京スカイツリーも、江戸と日光、さらに富士山を結ぶ要の位置にある。靖国神社の向きは東北東を指し、さらに参道上に設置されて大村益次郎像は上野山の西郷隆盛像を睨みすえる
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.104
2016年10月20日号
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◆今回の内容
◯江戸=東京の要の聖地 その2
・寛永寺、上野、靖国神社
・浅草的異界
◯お知らせ
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江戸=東京の要の聖地 その2
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前回は、芝公園にある丸山古墳をメインに、江戸=東京の要といえる聖地のうち、皇居の南部から西部にある聖地をご紹介しました。今回は、皇居を挟んで反対の北部から東部の聖地についてご紹介しましょう。
城南・城西の聖地が縄文時代からの祭祀遺跡の上にあり、江戸の支配階級にとって馴染みが深かったのに対して、城北・城東の聖地は庶民により近く、また体制にプロテストする勢力に密接に絡んでいました。位置的に対極にあるだけでなくその性質も対極的であるのが面白いところです。
【寛永寺、上野、靖国神社】
徳川家康のブレーンであり、家光までの三代にわたって将軍家の祭祀を取り仕切ったのは、謎めいた天台僧の南光坊天海でした。天海が家康を関八州の守り神として日光東照宮に祀ったのは有名です。家光の時代には、江戸城の鬼門方向に当たる上野に寛永寺を開き、ここを将軍家の菩提寺兼祈祷所としました。江戸でもっとも重要な鬼門封じの聖地としたわけです。
寛永寺は、京都御所の鬼門にあってこれを守護する比叡山を模しています。寛永寺の山号が「東叡山」なのは、東にある比叡山という意味です。さらに寛永寺の南西に琵琶湖を擬した不忍池を造りました。不忍池にある弁天島は、弁天様を祀った琵琶湖に浮かぶ竹生島というわけです。
その後、徳川幕府は300年にわたって日本を支配するわけですが、ついに崩壊の時を迎えたとき、その終焉を象徴する出来事が起こりました。それが、上野・寛永寺という鬼門封じの聖地が破られた「上野戦争」でした。
幕臣勝海舟と新政府を代表する西郷隆盛の間に和平協定が結ばれます。それに基づき、寛永4年(1868)5月3日に江戸城は無血開城されます。徳川十五代将軍慶喜は江戸城を出ると、一時寛永寺に謹慎します。このとき、慶喜の身辺警護と江戸の治安を守るために組織された「彰義隊」が寛永寺に集結しました。
慶喜が水戸に移った後も、彰義隊はそのまま留まり、寛永寺貫主兼日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けます。そして、江戸に駐屯する新政府軍と対峙します。このとき新政府軍の司令官だったのが西郷隆盛です。西郷は徳川将軍に対する義を重んじる彰義隊に同情的で総攻撃を躊躇し、これを咎められて解任されます。西郷に代わって官軍の司令官になったのは、長州藩士の大村益次郎でした。
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