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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.85
2016年1月7日号
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◆今回の内容
1.歴史の見方
・桓武は本当に弟の霊を恐れていたのか
・空海は本当に水銀中毒で死んだのか
2.お知らせ
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歴史の見方
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あけましておめでとうございます。
2012年にこの講座を始めて、今年は5年目を迎えます。当初は隔週で続けてすぐにネタが尽きてしまうのではないかと心配しましたが、それは杞憂で、この講座のためにいろいろ資料を紐解いたり、フィールドワークを重ねれば重ねるほど、あらたな謎や知見が出てきて、取り上げたいテーマも拡大してきました。
また、自分の中では結論が出ていたと思っていたことが、新たな資料と出会うことで、根本的な見方が変わってくるということもしばしばあって、聖地研究ひいては歴史や人間の研究は奥が深くて興味が尽きないことを日々痛感させられています。
この年末年始は、集中的に天武帝と桓武帝の事績について調べていたのですが、そこで見えてきたのは、天武帝も桓武帝も非常に卓越した道士・陰陽師であったことでした。ずっと私は天武帝にしても桓武帝にしても、本人が道教・陰陽道に卓越していたわけではなく、その側近に優秀な道士・陰陽師を抱えていたと思っていたのですが、どうやら彼ら本人が道教・陰陽道に精通していたらしいのです。
天武帝は、それまで道教や山岳信仰、修験道、仏教が混交していた信仰思想を「修験道」として整備した人物ですし、桓武は徹底的な風水思想に基づいた平安京という都を開いた人物ですから、道士・陰陽師的な素養を持っていたのは当然ですが、私が考えていたよりはるかに本格的な道士・陰陽師像が浮かび上がってきたのです。
桓武帝については、レイラインハンティングのサイトや拙著でも何度もテーマに取り上げ、彼が創建した平安京が怨霊封じを徹底的に施した都であったことを明らかにしました。そこから、私は桓武帝の人間像を陰陽道に耽溺し、自らが死に追いやった弟の怨霊に悩まされるパラノイアな支配者ととらえていました。
しかし、新しい資料をいくつか紐解いてみると、そんなパラノイア的な桓武像とはかなり異なる人間像が浮かび上がってきたのです。
今回は、そんな話を中心に、歴史を解釈する上で、固定観念に囚われず、様々な角度から検証することが大切なことを記したいと思います。
【桓武は本当に弟の霊を恐れていたのか】
天武帝は先帝である兄・天智天皇を暗殺し、正式な皇統であった天智帝の息子大友皇子を壬申の乱というクーデターで破って政権を奪取した野心的な天皇でした。
王位に就いた天武帝は、自分の地位を盤石なものとするために「天皇」という称号を創始し、自らが現人神であると宣言します。さらに、その「天皇家」の正統性を示すための神話を『古事記』『日本書紀』として編纂させ、とくに『日本書紀』を天皇家のバイブルと位置づけます。また、道教における天帝の命を受ける儀式である「封禅」に習って天皇即位の儀礼である「践祚大嘗祭」を創始するなど、今に続く天皇制の基礎を固めます。
天武を継いだ持統天皇は、自らを天照大御神の化身に見立て、伊勢神宮を天皇家の氏神とすることで、さらなる権力強化を図ります(詳細は、第11回「伊勢神宮・天照大御神とは何か」参照)。
この天武・持統体制によって確立された天皇制が今に至るまで続いているわけです。
しかし、天武・持統の皇統は、桓武帝の代で途切れることになります。桓武帝は天智系の皇統を継ぐ人物ですが、天武系の跡継ぎが途絶えてしまったために、漁夫の利的に天皇位に就いたのでした。
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