武田信玄、真田昌幸・信之などの武将や皇室に崇敬された生島足島神社
写真は冬至の太陽が参道の中心に沈むところ
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.84
2015年12月17日号
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◆今回の内容
1.武家の陰陽道
・現実的な防御としての結界
・江戸の風水再考
2.お知らせ
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武家の陰陽道
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先週の土曜日は、神奈川県藤沢市の朝日カルチャーセンター湘南教室で講座がありました。隣の教室では旧友、産業能率大学教授の松岡俊が古文書の読み解きの講座をやっていて、久しぶりに会ったので、講座が引けてから飲みに行きました。
松岡にこの日の講座の内容を聞くと、豊臣秀吉の軍師として知られた黒田官兵衛の私信を読み解くというテーマで、一般的な黒田官兵衛についてのイメージとはだいぶ異なる人間像が浮かび上がって面白いんだと話してくれました。黒田官兵衛といえば、戦国時代を代表する怜悧な戦略家という印象がありますが、私的な思いを綴った書簡には、自分が立てた戦略への不安や、戦はこりごりでもう戦場には行きたくないという弱音、さらに自らの進退や未来についての心配が切々と綴られいるのだそうです。
黒田官兵衛だけでなくほとんどすべての大名たちが、不安や心配を抱えて戦に臨んでいたことがわかると、松岡は解説してくれました。乱世を勝ち残った大名たちも、表向きは自身の才覚や度量によって勝者となったといったイメージを残そうとしていますが(後世の歴史家や小説家も好んでそうしたイメージで描いていますが)、実際には、どうして自分が生き残ったのかが腑に落ちず、運や神仏の加護以外にないと信じていたようです。
ですから、生き残った大名もその頂点となった徳川幕府も、自らを守ってくれた神仏の力をなんとかその後も惹きつけて、栄華が続くようにと、様々な工夫を凝らしたのでした。
今回は、そんな戦国時代の武士たちの心理から、武士にとっての神仏や聖地の意味について考察したいと思います。
【現実的な防御としての結界】
この講座の72回「大地に刻まれた北斗七星」でも少し触れましたが、長野県上田市の生島足島神社の社殿は武田信玄が寄進したことで知られています。この社殿の方位を見ると、背後に武田の本拠地である甲府と富士山を背負い、正面は川中島の決戦場を見据える形になっています。
信玄は、さらに上島足島神社の祭神下郷諏訪大明神に対して戦勝祈願の願文を記しています。願文を入れた懸紙(包紙)には、「下郷明神に奉納する願状沙弥男子(仏門を志す一人の男)」とあり、ずいぶん謙っている印象です。願文の内容は、戦いに勝って無事に帰還できることと上杉謙信の滅亡を願い、戦いに勝てた暁には、己羊(つちのとひつじ)の年(永禄二年)から、毎年十年に渡って財貨を寄進するという誓いでした。また、こうした陰陽道的な呪いだけでは不安だったようで、現在の上田市周辺の主要な武士を集め、自らへの服従を誓う起請文を書かせて、これも合わせて奉納しました。
戦国時代に勇名を馳せた信玄ですら、これほど神祇の力を味方につけようと必死なのですから、他の武将も推して知るべしです。
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