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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.83
2015年12月03日号
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◆今回の内容
1.諏訪大社の謎
・何故、四社一組なのか
・御頭祭に隠された意味
2.お知らせ
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諏訪大社の謎
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拙著『レイラインハンター』や『レイラインハンティング』サイトでは、関東でいちばん不可思議な構造の神社として鹿島神宮を紹介しています。
普通ではありえない北向きの本殿、西から東へ向かう参道、信仰形態が明らかに異なる本殿と奥宮…それらの意味を解き明かしていくと、鹿島神宮に秘められた大和朝廷の東国支配の構図がはっきりと見えてきます。
鹿島神宮に秘められた謎の詳細は、拙著やサイトで詳述していますので、そちらに譲るとして、今回は東西に伸びる参道を西へ延伸していくと突き当たる諏訪大社と鹿島神宮の関係の深層を考察してみたいと思います。
【何故、四社一組なのか】
鹿島神宮の参道を伸ばしていった先で突き当たるのは、諏訪大社を構成する四社のうちの上社前宮になります。正確にいうと、上社前宮がご神体山とする守屋山です。
何故、守屋山なのか。それは記紀神話の中で語られる"国譲り"エピソードと関係があります。国譲り神話は、天の神である天照大神が、地上を治める出雲の大国主命に対して、国を譲るように使者を派遣する話ですが、そのとき天照大御神の遣いとして派遣されたのが、鹿島神宮の祭神武甕槌神(タケミカヅチ)でした。
武甕槌神は天孫の中でも最も勇猛な武神として知られていました。武甕槌神に国譲りを迫られた大国主命は抵抗しても無駄だと潔く承諾し、大国主命の長男である事代主神は海へと飛び込んで隠れてしまいます。そして、次男の建御名方神(タケミナカタ)は、自分たちが開拓した地上を安々と渡すことを承諾せず、武甕槌神と戦いになります。
しかし、この戦いで建御名方神は破れ、北へと逃げ延びて行きます。その行き着いた先が諏訪でした。諏訪の言い伝えでは、建御名方神は最初に守屋山に降臨し、その後上社前宮、上社本宮に祀られたとされています。
諏訪に逃げ延びた建御名方神に対して、武甕槌神は、建御名方神がそのまま諏訪に留まることを条件に許します。国譲り神話ではそこまで記されているわけですが、鹿島神宮の構造を見ると、今でも諏訪に鎮座した建御名方神を睨み据えていることを、西を向く参道が示しているわけです。
ところで、どうして諏訪大社は四社からなるのでしょう。普通に考えれば、建御名方神が降臨した守屋山をご神体として、前宮を拝殿とすればそれで済むはずです。多くの神社は、ご神体山の山頂に奥宮や本宮と呼ばれる場所があって、これと対になる形で里宮があります。あるいは、一柱の神の和御魂を祀る本殿と荒御魂を祀る奥宮が同じ境内か近い場所に祀られるのもポピュラーな形です。宗像大社は沖津宮、辺津宮、中津宮の三つの社で一組ですが、これは三柱の女神をそれぞれで祀っているので不自然さは感じません。諏訪大社のように、祀られている神が同じなのにわざわざ四社で一組とするという例は他にはありません。
諏訪大社を構成する四社は、上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮です。四社ともに建御名方神とその妃神である八坂刀賣神(ヤサカトメ)を祭神としています。秋宮のみこの二神に八重事代主神が合祀されています。しかし、この祭神は明治の宗教改革によって決められたもので、それ以前は本宮の祭神は建御名方神だけ、前宮は八坂刀賣神、春宮と秋宮は二神と八重事代主神が祀られていました。また、春宮と秋宮は半年ごとに祭神が交替していました。つまり、本来は四社それぞれで祭神が異なっていたわけです。
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