地方へ出かけるとき、カバンの中に祝詞の全集を入れていく。
全集と言っても、ナローサイズの手帳くらいの大きさで、厚さは1センチほど。バッグのポケットに入れておいても邪魔にならない。
中には、大祓祝詞から各種の祭文、般若心経まで80篇あまりが収められている。これを静かな場所で、パラパラとめくって、小さく口ずさむ。すると、不思議に心が落ち着いてくる。経文もそうだが、程よいゆらぎの響きを奏でるような文言で、吹き渡る風や揺れる日差しと調和して、スッと眠気を誘われるのだ。
祝詞の文言は、言い回しは古いが、日本語そのままなので、読めば意味がわかる。神様の名前は読みづらいが、要は、自然界の中の様々な現象を神の顕現と考えて、それに名前をつけているので、これは土の中にあって、大地を目覚めさせる力の事を言っているんだなとか、これは川の流れが速くなったり時には淵を作って淀んでいる状態を表しているんだなとか、宗像三女神のように、海の上層と中層、下層をそれぞれ表しているんだなとわかる。
人間が活動することで、どうしても穢れや罪が生み出され、それを浄化するための装置として聖地がある。個々の聖地はそれぞれ自然界の中の特定の状態を象徴していて、そこでそれぞれに振り当てられた祝詞を奏上することによって、穢れや罪がその場に吸い取られ、宇宙へと拡散していく。それはもちろんイメージの話だが、自分が貯めこんでしまった穢れや罪が聖地という舞台装置の中で、バーチャルに祓われることで心が落ち着く効果を持っている。
聖書やコーランはどこへ行っても文言は同じだが、祝詞は、聖地の個性に合わせて読み分けられる。ときには、仏教思想も習合していて、そこではなんの違和感もなく般若心経を唱える。
日本の聖地とそれを取り巻くシステムというのは、かなり洗練されたものだと思う。
最近、神社や寺の拝殿の前で、長い時間祝詞や経を唱えている人たちをよく見かけるようになった。
沢山の人がお参りにやってきて、それぞれの思いを持って神様=その場所が象徴する自然と向き合いたいと思っているのに、いつまでも離れようとしない人たち。しかも、そういう人たちは、意味不明な祝詞ともつかないものを唱えている。あるいは、祝詞は唱えなくても、拝殿前のスペースを一人で占拠して自分勝手な瞑想をしている人がいる。こういう人たちには、何かとても不気味な歪んだものを感じる。
3月に若狭で定例のツアーを行ったが、そこに参加した大阪のグループは、自称霊能者という女性を中心に、ぼくがアテンドしているところでも説明を聞かず、長い時間、拝殿の前に陣取って意味不明な呪文を唱えていた。
ツアー終了後の懇親会では、自称霊能者の女性が、ぼくに向かって、「あなたは、しっかりと祝詞を唱えなければいけません。神社で必ず祝詞を唱えれば、あなたは指導者として大成します」と、意味不明なことを言った。
彼女が言う「指導者」というのはカルトの教祖のようなものなのだろうが、そんなものを目指すつもりなどまったくない。
その後、政界や財界にどれだけ自分を信奉する人がいるかを延々と語っていたが、こういう人間に必要なのは、神社や寺ではなくて、病院での治療だろう。
祝詞を唱えたければ、きちんと拝殿に昇殿して、他の参拝客の邪魔にならないように思う存分唱えればいい。瞑想したければ、やはり人の邪魔にならないところで、一日でも二日でも、一週間でも、お望みなら餓死するまでやっていればいい(実際に捨身や即身仏になる修行もある)。
まず、なにより、祝詞をじっくり読んでみれば、神道が伝えようとしている自然信仰の意味が理解できて、自ずと謙虚になれるはずだ。
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