□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.50
2014年7月17日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
1 太陽の道の聖地
・太陽の道とは
・室生寺と聖水
・長谷寺と都祁王国
2 お知らせ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
太陽の道の聖地
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この13日は、伊豆急主催のレイラインツアー第二弾が開催され、一日、アテンドしてきました。今回のコースは、この講座でも紹介した大室山、八幡宮来宮神社、城ヶ崎海岸をメインに、火山活動によって形作られた伊豆の大地から沸き上がる力の痕跡を皆さんに体感していただき、また、その大地の力への畏怖の表現ともいえる、地蔵や神社社殿の配置について、GPSを使って、詳細な解説をさせていただきました。
八幡宮来宮神社では、普段は無人の拝殿を氏子代表の方に開いていただき、正式参拝することができました。
拝殿の中では、八幡宮来宮神社の本殿が冬至の日の出の方向を向いていることから、太古の太陽信仰の名残を留めていること。それは、ここが縄文時代の祭祀遺跡であった可能性が高いことを物語っているといったことをお話しました。すると、ツアー参加者の後ろで解説を聴いていた氏子の方が、合点がいったといった表情で、こう言われました。
「今年の正月に、元朝参りの準備で社を開けていたんですがね、そのとき、参道のほうを振り向いたら、太陽が正面に昇ってきて、拝殿の奥まで朝の光が入って、神々しい光景だったんですよ。ただの偶然だと思っていたけど、ちゃんと意識してそういう作りになっていたんですね」
本来は、冬至の太陽に向かって、太陽の再生と命の循環を願う祭祀が行われていたはずだから、それを復活させて、みんなで冬至から正月にかけて、この場所で朝日を拝んではどうかとアドバイスすると、たいそう喜こばれていました。
まさに、こうしたことが「温故知新」なのだと思います。
さて、今回はこの講座も記念すべき第50回を迎えました。それなりにボリュームのある内容を隔週でお送りするのは、かなりしんどい作業でしたが、それでも頑張って欠かさず続けてきたことで、私にとっても、とてもいい勉強になっています。これから第100回に向けて、じっくり続けていきたいと思いますので、どうぞ今後ともお付き合いください。
区切りのいい今回は、日本のレイライン研究の原点ともいえる『太陽の道』を題材に、その上にある二つの聖地について掘り下げてみたいと思います。
【太陽の道とは】
レイラインは、1920年代にイギリスのアマチュア写真家アルフレッド・ワトキンスが、イングランド南部の丘の上から眼下に広がる景色を見渡したときに、一直線に教会や遺跡が並んでいることを発見したことから始まります(詳細は、レイラインハンティングサイトのほうを参照ください http://www.ley-line.net/index.html)。
日本では、1970年代初期に、奈良市在住の写真家小川光三氏が、ライフワークとする古寺や仏像の撮影をしている最中に、伊勢斎宮から奈良の中央部を横断して淡路島に至る北緯34度32分の緯度線上に聖地が並ぶことを発見したことをきっかけに、レイラインという概念が聖地研究において用いられるようになりました。ただし、小川氏はレイラインとは呼ばず、このラインが、春分秋分の太陽の運行線であることから『太陽の道』と呼びました。
太陽の道の上には、主要なものだけ挙げても、東から、伊勢斎宮、丹生寺、室生寺、長谷寺、三輪山、前回紹介した箸墓、聖徳太子墓、大鳥神社、伊勢くるま神社と、名だたる聖地が並んでいます。
この太陽の道は、単に北緯34度32分の緯度線上に聖地が並ぶというだけではなく、伊勢神宮の創建に深い関わりがあります。
崇神天皇の時代までは、伊勢神宮の祭神である天照大御神は朝廷内に奉斎されていました。ところがあるとき疫病や天災によって社会が不安定になり、その原因を倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)が託宣によって得ます。倭迹迹日百襲媛命は前回も触れましたが、このライン上に位置する箸墓の被葬者と考えられる最高位の巫女です。
その託宣によれば、天照大御神を朝廷の外に奉斎すれば、全ての災厄は収まるとされました。そこで、崇神天皇の娘である豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)が、朝廷から天照大御神を移して奉斎したのが、笠縫邑と伝えられています。この笠縫も三輪山の麓で、太陽の道の上に位置しています。
しかし、この笠縫邑にも長くは留まらず、崇神天皇の次の垂仁天皇の代に、垂仁天皇の皇女である倭姫が天照大御神の御霊を抱き、「御杖代(みつえしろ)」として、諸国を行脚し、最後に伊勢に落ち着いたとされます。この故事により、伊勢の天照大御神は皇女である斎宮(いつきのみや)が奉斎することになりました。
当初、伊勢神宮内宮は、倭姫が最初に落ち着いた今の斎宮跡に置かれたと伝えられています。この伊勢の斎宮跡も太陽の道の上にあります。笠縫と斎宮を結ぶ区間は、いわば倭姫の巡行の道といえます(実際には倭姫は笠縫を出てから伊勢に落ち着くまでに広く畿内を移動しています。現在確認されている「元伊勢」は30ヶ所あまりになりますが、どのような基準で伊勢の候補地が選ばれたのかはわかっていません)。
この太陽の道の笠縫と伊勢斎宮との間にある二ヶ所の聖地、室生寺と長谷寺に焦点を当て、そこに何が秘められているのかを検証してみたいと思います。
コメント