「故郷の山」というには、その山は、関東平野の彼方にあって、地元意識は薄いのだが、だだっ広い平野が広がる故郷から唯一見える山はこの山だけであり、小学校から高校まで一貫して校歌に登場する山なので、「筑波山」というと自然に郷愁が湧いてくる。
そんな筑波山に久しぶりに登った。
記憶にある筑波登山は、小学校の5年生くらいの頃、母親に連れられてスケッチブックを携えていた光景がいちばんはっきりしているから、40年以上前になる。でも、なぜか筑波山神社の佇まいや、筑波名物四六のガマのモデルとなったと言われる「ガマ石」などははっきりと覚えていて、その遠い記憶とぴったり一致して、40年も経ったとは実感できない。
ケーブルカーは新しい車両になっていたけれど、山頂駅周辺のうらぶれた門前町のような店の並びも記憶のままで、山を降りたら、大きなスケッチブックを小脇に抱えた小学生に戻っているのではないかなどと思ってしまう。
しかし、その懐かしい筑波山から降りてみると、広大な山裾には整然とした筑波の学園都市が広がり、そこから太平洋岸の故郷の町までの風景も、40年前の面影はまったくない。
故郷の町から東京に出るときは、かつては単線を走るマッチ箱のようなディーゼル列車に揺られて常磐線の石岡駅まで出て、そこからまた長閑な各駅停車で、上野に辿り着いた。石岡へ向かうマッチ箱列車の車窓からは、だんだん筑波山が近づいてきて、石岡から土浦までは、その優美な姿を横目に見て、さらにはだんだん遠ざかっていくその姿に、故郷から離れていくちょっとしたノスタルジーを味わった。
今ではマッチ箱列車の路線は廃止され、常磐線の各駅停車は極端に本数が少なくなって、鉄道交通よりもはるかに便利になった高速道路を使うようになった。
今回も、取材ということもあったが、筑波山へは車で向かった。
ちょうど、メールマガジンの『聖地学講座』で、「場所」について書こうと思っていたこともあって、昔と何も変わらない筑波山と、対照的にまったく変わってしまった麓から故郷の町へかけての、それぞれの「場所」としての意味合いは、どう変わったのだろうなど考えていた。
昔と変わらない筑波山は、心に残る「場所」とシンクロし、「失われた時を求めて」で主人公が紅茶にマドレーヌを浸して食べた時のように、ほのぼのとした思い出を蘇らせた。逆に、東京の郊外の町並みからそのまま住宅の密度を薄くしていっただけの画一化された風景には、思い出から切り離された疎外感を覚える。
ぼくには、筑波山が発散する「場所」のイメージと、その麓のつくばや故郷の町へと続く沿道に漂う「場所」のイメージが、とても乖離したものに思えるのだが、ぼくと違う世代のこの地方の出身者にとってはどうなのだろうか。
ぼくより上の世代には、二つの場所の乖離はぼくの感覚よりももっと大きく感じられるのだろうか。またずっと下の世代で、学園都市が整備されて生まれ育った世代にとっては、どちらも同質の故郷として感じられるのだろうか。
旅をしていると、ずっと昔に、時間が止まってしまったような山里に出くわすことがある。「原風景」とか「古き良き日本の風景」と形容したくなるようなそんな場所は、「三丁目の夕日」がリアルな風景だったぼくたちの世代と同様に、現代っ子にも感じられるのだろうか。もし同じ感覚を呼び起こされるのなら、そうした「原風景」を感じさせる「場所」は、どんな力を人に及ぼしているのだろう。
そんなとりとめもないことを考えながらあちこちを巡っていた。
筑波研究学園都市では、この未来都市の象徴ともいえるJAXAの宇宙センターを訪ね、若田さんが滞在した国際宇宙ステーションの「きぼう」実験棟のレプリカを取材した。大気圏の上を巡るこの無機質なモジュールでは、「場所」というのはどんなイメージになるのだろう。そこに半年以上滞在した若田さんが、再び宇宙に浮かぶこのモジュールを訪ねたら、その「場所」が醸し出す雰囲気に、彼は懐かしさ以外に、何を感じるのだろう。
そもそも、地球の大地から切り離された宇宙船には、「場所」という概念は当てはまらないのだろうか。
宇宙船センターで、テクノロジーの毒気に当てられたようになった後に、そこからほど近い住宅地の中にあるカフェに寄った。
古い農家の土蔵を買い取り、オーナーが手作りしたこのカフェでは、まさに「原風景」を感じた。古い土蔵の面影は、漆喰の壁や天井裏の剥き出しの梁くらいにしか残っておらず、雑貨ショップを兼ねた店の中は、ヨーロピアンな雑貨と家具がセンスよく並んでいるのだが、この場所は紛れもなく、ぼくの記憶に残るノスタルジーを掻き立てた。
コメント