麓が紅葉で燃え上がり、森林限界を越えた岩峰は、鉛のように重い岩盤を剥き出しにしたかと思うと、雪雲のベールに隠されて、それが晴れると薄い雪化粧を見せる。さらに何度か雪雲が通り過ぎると、無垢の白さの雪山となる。
完全な雪山となる前の重い岩盤と雪が混じりあった山の姿からは、人智を越えた「何か」がそこに垣間見える。その厳つさ、神々しさが好きなのだ。
そんな岩峰に一人立って、強風に晒されていると、命の儚いことが身に染みる。そして、自分がその儚い命を差し出して、山の神々しさの一部となっていることに底知れない喜びを感じる。
日本では、古来から山岳は神々の領域とされてきたけれど、きっと、この景色を見た人々が、その神々しさに打たれて、「山は人の立ち入る世界ではない」と発想したのだろう。ジェットストリームに雪が飛ばされて根雪がつかないヒマラヤやカラコルムの岩峰も、その冷たく重い岩盤を晒しているからこそ不可侵の神様の住む場所とされてきたのだろう。
こんな神々しい景色と向き合うのは、やはり一人に限る。せっかく神様の領域に足を踏み入れているのだから、俗世は忘れて、忘我の境地に入っていたい。
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