この5月から3ヶ月にわたって、伊豆半島の東海岸に秘められた歴史や謎を辿ってきた。熱海、伊東、伊豆高原、河津、下田といえば、東京近郊のリゾートとしてのイメージが強いが、ちょうど夏の行楽シーズンが始まる前の静かな時期に巡り、じっくりとそれぞれの土地と向き合ってみると、今までまったく気づいていなかった伊豆の魅力が立ち現れてきた。
伊豆という土地をこよなく愛し、伊豆に根を張るようにして、この場所で名作を生み出した川端康成は、『伊豆の旅』という随筆で、「伊豆には、風景のあらゆる美しさの模型がある。……そして、詩の国と感じさせる第一の原因は、伊豆が南国の模型だからだ。紀伊の感じを小さくしたのが伊豆と誰かが言ったが、紀伊を南国の大きい模型とすれば、伊豆は南国の小さい模型だ」と要約している。
濃密な緑の気配は確かに紀伊半島ととても似ていて、さらに同じような空気の匂いや強い日差しがデジャビュのように紀伊半島の聖地の記憶を呼び覚まさせるが、伊豆は「半島」というよりも「島」の印象が入り交じっているところが、紀伊半島とは決定的に違う。
例えば、下田の白浜海岸や弓ヶ浜に佇んでいると、本州と地続きであることを忘れて遠い南の島にいる気がしてくるし、岬の上にポツンと置かれた白い祠越しに真っ青な海を見渡すと、沖縄本島北端の安須森御嶽=やすむいうたき(http://obtweb.typepad.jp/obt/2006/12/3-----d78e.html)の記憶が鮮明に蘇ってくる。
伊豆は本州とは違うフィリピン海プレートの上にあって、元々は太平洋の遥か南東海上に浮かぶ島嶼だった。それが100万年かかって本州が乗るプレートにぶつかって本州と地続きになった。人類の歴史から見ると100万年は途方もない時間のようだが、地質学や地球物理のスパンからすればほんの一瞬ともいえる時間で、当然ながら土地は100万年昔の記憶を鮮明に留めている。
昔から多くの文人墨客が伊豆を愛し、また奈良や平安の時代には遠流の地とされたが、それは伊豆の自然環境が異世界を強く感じさせるためだったのかもしれない。
伊豆はまた、黒潮のメインストリームの中に突き出したような格好になっているので、この海流に乗って、人や物やときには神や仏までが漂着して、伊豆に留まることになった。賀茂氏のように紀伊半島経由で伊豆に達して、定住した渡来民もかつては多かったようで、それも伊豆にエキゾチックな雰囲気を加味する要素の一つとなっている。
伊豆をその自然環境的な成り立ちと、その環境に影響を受けた人間が刻んだ歴史から見ると、「来宮信仰」が土地の記憶の底流を成している事がわかる。
人や神仏(像)が流れ着いた来宮、濃密な森を表す木宮、渡来の由来を物語る紀宮、都から流された尊い者の記憶を伝える貴宮、その輻輳する意味がすべて「きのみや」という一つの言葉の中に込められている。
この来宮については、今まとめているガイドの中で詳しく語るつもりなので、それを待っていただくとして、今回は、ある一つのエピソードについて触れてみたい。
伊豆を代表する風景の一つに、大室山がある。ぼくと同じウルトラマン世代なら、ヒドラが生まれた山といえばすぐにピンとくるかもしれない。毎年、山焼されて丈の低い草が覆う山体は、巨大な丼を伏せて置いたようで、ひときわ目を引く。これは「スコリア丘」と呼ばれる単成火山で、5000年前の一回限りの噴火で出来上がった。
標高580mの頂上は、噴火口の周囲がぐるっと一周できる稜線になっていて、その西の一角に「五智如来地蔵」と呼ばれる五体の地蔵が並んでいる。
この由来には面白いことが書かれている。「寛文の初め(1663年)、相州岩村(神奈川県足柄下郡)の網元、朝倉清兵衛の娘が9歳で身ごもり、その安産を大室山浅間神社に祈願したところ無事出産したので、「おはたし」と称して、真鶴石で五智如来像を作らせ、船で城ヶ崎の富戸港へ運び、富戸の強力兄弟が一体を三回に分けて背負って現在地に安置したと伝えられる」。さらに、この五智如来像は浅間神社のご神体山である富士山を向けられているとも言われる。
この五智如来像の由来は、素直には受け入れられない不思議なことだらけだ。まず、娘が9歳で身ごもるということが異常だ。仮にそういうことがあったとしても、当時なら民間療法で堕胎するか、あるいは生まれた子を密かに流してしまうほうが通例だった。また、伊豆は有名な伊豆石の産地で、大室山周辺でも石を切り出すことはできたのに、わざわざ真鶴から運ぶというのもおかしい。「おはたし」という言葉も、出産を喜ぶ言葉としてはどこか妙だ。さらに、実際に方位を確かめてみると、五智如来像は富士山を向いてはいないし、仮に五智如来像が富士山を意識しているとしても、大室山浅間神社に祀られているのは富士山の神様である木之花咲耶姫ではなくその姉の磐長姫で、大室山山頂から富士山を拝すると磐長姫が嫉妬して、怪我をしたり不漁になるという伝承に矛盾する(日本神話では、地上を治めるために天界から派遣された瓊瓊杵尊に、大山祇神が木之花咲耶姫と磐長姫という二人の娘を嫁がせようとしたが、瓊瓊杵尊は醜い磐長姫を送り返してしまう。このことが、本来不死であった瓊瓊杵尊とその子孫に寿命をもたらすことになってしまう)。
では、いったい、この由来は何を表しているのだろう。
大室山の浅間神社は、承応三年(1654)に時の松平伊豆守が建立した。浅間神社は富士山をご神体とするから、普通なら富士山の化身である木花咲耶姫を祀るが、その姉の磐長姫が祀られたということは、富士山を意識したのではなく、磐長姫の不死性を大室山に象徴したものととれる(磐長姫の名の由来は、磐=岩は硬く盤石で永遠であると言う意味)。
五智如来像の創建は大室山浅間神社の創建から9年後で、これはちょうど娘が身ごもった歳に符合する。これは、大室山浅間神社の創建時に何かを願掛けし、それが9年後に「はたされた」ことを暗示しているのではないだろうか。
五智如来像をここに安置した朝倉清兵衛は由来書きでは「網元」とされているが、他の資料を当たってみると、小田原にある長興山紹太寺の供養塔にその名が見られ、網元ではなく、真鶴石を扱う石材の業者であったことがわかる。ということは、自らが扱う石材をわざわざここまで運んできて安置したことになる。
五智如来は大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就の五体の仏を指し、これは密教の金剛界曼荼羅を構成する。金剛界は大日如来の知恵の世界で、普遍堅固な宇宙を意味している。永遠性を象徴する大室山に、さらに金剛界曼荼羅を重ねて、9年目に果たした何かをさらに堅固なものにしようというさらなる願掛けともとれる。この五智如来像が向いている先は、伊豆の葛城山だが、ここは伊豆に遠流された修験道の開祖役小角が開いた山だ。ここにも当然、深い意味が隠されていると思う。
じつは、この五智如来像に関しては、まだ調査が途中で、今後、真鶴の朝倉清兵衛について調べようと思っている。
大室山に登って、初めてこの五智如来像と出合い、その由来を不審に感じて調べてみると、どんどん謎が深まっていく。ネットで検索すると、由来書きをそのまま鵜呑みにして、大室山がスピリチュアルな場所だといった話に脱線してしまうような記事ばかりが出てくる。せっかく、ここに面白い謎が提示されているというのに、どうして思考停止して、安産やら縁結びなどに短絡的に結びつけてしまうのだろう。
伊豆に秘められた謎は、まだまだあって、それぞれを掘り下げていくと、埋もれた歴史が見えてくる。隠れキリシタンが他の人間にはわからない独特の符牒や物語を通じて、信仰を守り続けたように、政治的な制約が多かった昔は、歴史の真実を様々な記号に変換して残そうとしていることが多い。そういったものは、身近にもたくさんあって、それを読み解いていけば、新たな歴史的な知見や、昔の人たちの真意が見えてくる。
伊豆のガイドでは、ただ名所巡りをするのではなく、そんな古の人の思いもこもった「土地の記憶」を読み解く旅を推奨したいと思う。
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