桂峯寺を訪ねた翌日、高山市内の飛騨国分寺を訪ねた。
高山の陣屋前から一之町、三之町にかけては観光客でごった返しているのに、そこから数ブロック離れた国分寺界隈は地元の人だけで、当たり前の朝の風景を見せている。飛騨地方独特の黒い板と漆喰の壁に屋根が張り出した家が並び、それが観光客で溢れる作り物めいた街並みとは違って、自然な生活感があるからこそ格段に山国の風情を漂わせている。
その街並みに埋もれるようにして、国分寺の白い壁が現れる。そして楼門を潜ると、どうしてそれが通りから見えなかったのかが不思議な立派な三重塔と巨大な銀杏の木が出迎えてくれる。
寺務所で案内を乞うと、優しげなおばあさんが先に立って案内してくれた。
寺務所から渡り廊下を通って本堂へ。本堂に入る前に、抹香の入った皿からひとつまみの香を取り、それを手を洗うように塗香して清める。上品な伽羅の香りが、仄かに漂う。
ここには円空の彫った弁財天と薬師三尊が安置されていて、その仏を拝観するのが主目的だったが、本堂に入り、「こちらが、ご本尊の薬師如来さまです」と案内されて、その仏と対面したとたん、息を飲んでしまった。天平時代作と伝えられるこの仏は、全体も細部の線も全て流麗で、どこにも直線がなく、対面するこちらの心を見ているだけで和らげてくれるような円やかさがある。それでいて、一点の曇りもない凛とした雰囲気も合わせもっている。
「こちらの薬師如来様は、施無畏与願印と言いましてな、右手は『落ち着いて』と優しく制するようにこちらに向けて、左手は病や憂いを払う薬壺を載せて、それを差し出すように掌を見せているんですよ」
優しいおばあさんの声が堂内に静かに響き、正座して手を合わせると、伽羅の香りが立ち上り、一瞬、仏が息がかかるほど間近にやってきたように感じられた。
薬師如来像の隣には2mを越える聖観音の立像が安置されている。
「こちらの聖観音さまは、左手に蓮の蕾を持って、右手は来迎印を結んで、望みや希望が『開きますよう』と願ってくれているんですよ」
薬師如来と同じく流麗な曲線で構成されている聖観音像は、正座して見上げると顎と首の影が濃くなり、輪郭が研ぎ澄まされて、半眼の瞳とこちらの視線がピッタリと一致する。そのとき、人を超えた高貴な存在に見つめられているという実感が湧き上がってきた。
「よく、遠くからお参りに来られましたなぁ」
おばあさんの声で我に返るまで、魅入られていた。
優美な薬師如来と聖観音に対面した後に円空が刻んだ弁財天と三薬師像に対面すると、今度は円空仏の親しみやすさが際立って見えた。
薬師如来と聖観音は、仏教思想が清新で最先端の思想であった時代に造られたもので、思想が昇華されたまさに形而上的存在といえるものだ。その仏は天上界にあって、時折地上に降臨して迷える人間に希望を与える。一方、円空仏は地上の人々の生活の中にあって、いつも直ぐ傍で見守ってくれている。また、円空仏は自分の内側にある仏性が、ヒョイと表に飛び出したかのようで、たまらない親しみを感じさせる。
円空の刻んだ弁財天は、丹念に彫られた姿から彼が亡き母親を思いながらノミを振るったことを思わせる。三薬師像のほうは、通称『鍋蓋薬師』と呼ばれているそうで、単純素朴な微笑仏が鍋蓋のような取っ手のついた板の上に仲良く並んでいる。こちらは一体一体の表情もユーモラスで、見ているだけで笑いがこみ上げてくる。
今回訪ねた寺社の中では、もっとも洗練された仏ともっとも素朴でユーモラスな円空仏を対比的に拝観でき、それぞれの仏の性質や意味をより鮮明に理解することができた。
ここでは、護摩壇も間近に見学させていただいた。
方丈ほどのスペース組まれた護摩壇には、その真中に真鍮の釜が埋め込まれ、その周りに様々な法具が設えられている。正面の仏壇には、煤けて闇のように黒くなった不動明王が鎮座している。
護摩壇を仔細に眺める機会などそうそうないので、夢中になって見入っていると、おばあさんは嬉しそうに、「ほんとに、よく遠くからお参りに来られましたなぁ」とさっきと同じ言葉を繰り返し、お寺の生活スペースのほうまで案内してくれた。
本来、寺社は見ず知らずの人でも優しく受け入れて、仏や神様との縁を取り持つ場所だった。飛騨国分寺はそんなことを思い出せてくれるお寺だった。
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