"聖地"は、元々その土地に秘められた何らかのポテンシャルが高く、それが自然に人を引き寄せるケースと、人為的に演出されて作られるモノとがある。
人為的に作られた聖地は、他の土地と比べて際立って高いポテンシャルを持っていなくても、その土地にまつわる物語(宗教的な奇跡譚など)を生み出したり、風水などの景観学に基づいて整備したりして人を集め、人が集まりだすと、今度はその人たちが持ち寄る"気"によって聖地性が高まっていく。
"人気"という言葉を、ぼくたちは何気なく使っているが、"人の気"と呼び変えれば具体的な様相が見えてくる。
古来から、都市計画や建築、芸能に携わる人たち、そして為政者は、人の気を引き、それを集めるためのテクノロジーを積み上げてきた。その代表的な例が風水だ。
元和2年(1616)4月2日、死の床にあった徳川家康は、本多正純、金地院崇伝、南光坊天海という三人の側近中の側近を枕辺に呼び、遺言を託す。「自分の遺体は駿府久能山に葬ること」、「葬礼は江戸増上寺で行うこと」、「位牌は三河の大樹寺に立てること」、「一周忌の後、下野の日光山に小堂を建てて勧請し、自ら関八州の鎮守とすること」というものだった(『本光国師日誌』)。この遺言に基づいて、一切の儀式を取り仕切ったのが天海だった。
家康を東照大権現として神上がりさせ、日光東照宮を開いてこれを祀り、東照大権現の威光が江戸を照らすように風水的仕掛けを凝らした。仕掛けの詳細は以前の東京スカイツリーに関するエントリーやレイラインハンティングサイト、拙著『レイラインハンター』などで詳述しているので省くが、風水的な仕掛け以上に、緻密な風水的仕掛けを施したと知らしめることのほうが、江戸を聖地化する上で重要な意味を持っていた。
天台僧であった天海は、馴染み深い平安京(京都)の風水装置を江戸に応用して、江戸の周囲に結界を張る。そして、それを周知させることで、結界のポイントは江戸の名所になっていく。また、山王一実神道の三諦即一の教義を援用して家康の霊位を神格化する。仏の姿での顕現が薬師如来、人間の姿での化現が家康、そして神としての化現が東照大権現というわけだ。家康の「小堂を作るべし」という遺言とはかけ離れた巨大で壮麗な日光東照宮とそれを取り巻く寺院群を造営し、さらに盛大な祭儀によって、これを周知させることで、家康が祀られた日光をも聖地化した。
そうした江戸初期から受け継がれてきた日光-江戸という風水装置を再活用しているともいえるのが東京スカイツリーだ。
東京スカイツリーの母体はご存知のように東武鉄道だが、浅草と日光を結ぶ東武鉄道の路線は、見事なくらい天海が仕掛けた風水装置に沿っている("東京スカイツリーとレイライン その2"参照)。
さすがに400年も経って、現代人の意識の中では薄れてきつつあった天海のメッセージは、今、東京スカイツリーという新しい風水的アイコンを得て、また見直され、江戸-東京と日光という二つの聖地を"人の気"によって活性化させるかもしれない。
**間もなくメールマガジン"聖地学講座"を開講します。聖地の成り立ちから聖地の作り方まで、聖地にまつわる様々なエピソードを体系的に紹介していきます。詳細は、レイラインハンティングにて発表いたします**
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