このところ恒例のようになっている午後の嵐が通り過ぎた後、ランニングに出かけた。
途中、ツリーイングイベントでも使う大きな公園があって、その中は、折れた枝が散乱していて、トレールランのように散乱する大小の枝を交わしながら走った。
一昨日に茨城県のつくば市を竜巻が襲ったときは、さいたま市北部のこのあたりも看板を吹き飛ばすような突風が吹いて、樹齢30年を越えるような立派なクヌギの健木を根本からへし折ってしまった。そのときもランニングに出て、公園に近づいた時に不気味な黒雲が差し掛かってきた上に雷鳴がしはじめたので、途中で引き返した。幾度か、地面を揺るがす落雷があったが、ちょうどその頃、隣町の公園で犬を遊ばせていた親子が落雷に遭って、意識不明となってしまった。
昔から嵐や台風というと心が騒いで、わざわざ表で雨に打たれながら稲光を眺めたり、海岸へ行って高波を眺めたりしていたが、今は天気の荒れ方が尋常ではないし、またあまりにも気まぐれなので、とてもそんな酔狂はできなくなってしまった。もともと、そんな酔狂は無謀で、馬鹿げたものでもあるのだが、本当に身に危険が迫ったときはなんとか回避できるという間合いを測る自信があった。だが、この数年の異常な天気には、そんな根拠のない自信すら持てなくなってしまった。
明らかに気候が異常になったと最初に感じたのは、10年近く前だった。オートバイのツーリング取材で信州を旅して、その帰り路。松本で酷い雷雨に見舞われた。その雷雨はずっとぼくを追いかけるように付いてきて…実際は非常に広域で荒天になっていて、その下を移動していたのだが…、中央高速に乗っても間近で稲妻が空気を切り裂いて、砲撃のような雷鳴が途切れ無しに続き、豪雨が路を激流に変えていた。
雷雨は、急激に発達した積乱雲がもたらすもので、縦への発達は早いけれど、横広がりに面の展開はあまりしない。だから、その中心から脱出すれば荒天から逃げ出すことができる…普通は。
「移動すれば、そのうちこの吹き降りは止むだろう」と当然のように考えて、先を急いだのだが、どこまで行っても発狂した打楽器奏者の群れが耳元で楽器を力いっぱい乱打するような、嵐の「狂乱」は収まらなかった。
たまたま、ぼくと同じように考えて、先を急ごうとするライダーと途中で合流し、アイコンタクトで先頭を交代しながら進んだ。結局、嵐から抜け出たのは八王子近くで、そこまで4時間あまり、ナイアガラの滝を潜り続けるような走りが続いた。
料金所を出たところで、雨具を脱ぎながら、はじめてランデブー走行してきたライダーと言葉を交わした。彼も、20年以上オートバイツーリングをしてきたベテランライダーで、こんな天気は、今まで経験したことがないという。
「なんだか、天の怒りを感じるようだったね…」「まったく…」 なんてため息をつきあい、お互いの安全を祈って別れた。
その後、毎年のツーリングで、今まで経験したことのない異常な気象を経験するようになってしまった。
今はまさしく『天変地異』の時代なのだと思う。天変地異は、天からの、自然からのメッセージだ。そのメッセージをどう受け止めればいいのか、それは先人たちが教えてくれているはずだ。
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