「いいか、よく肝に命じておけよ。滝行でもっとも危険なのは、行を終えて戻るときなんだからな。滝に打たれてすっかり浄化されたおまえたちの魂、その魂から清浄さを奪い取ろうと、お前たちに悪霊たちが憑いてくるんだ。よく見渡してみろ、この谷には、悪霊たちが渦巻いているだろ。あいつらは、自分たちが救われるために、おまえたちの魂を喰らおうと、待ち構えているのだ。だから、滝行が終わったら、今より尚いっそう気を入れて、ここまで戻ってこなくてはならない。わかったか!」
滝行に入る前、先達はことさら厳しい調子で、みなを恫喝する。
この先達の言をそのまま真に受ければオカルトになってしまうが、じつは、この言説には修験道の長い歴史が作り上げた巧みなプログラムが隠されている。
滝に打たれるという行為は、無我の境地に至るためのもっとも確実な方法の一つだ。
気合とともに、冷たい水が落ちる滝の下に身を躍らせると、最初に肉体感覚を強烈に意識する。白刃を突き立てられるような冷たさ、ハンマーで打ち据えられるような水圧、そして耳を聾する轟音……そこには、肉体的「苦」の要素が凝縮されている。
その苦痛を払うために、一心不乱に経を唱え、印を結んだ手に渾身の力をこめる。
そして、耐え続けるうちに、ある瞬間、「無感覚」が訪れる。水の冷たさも打ち付ける水圧の痛さも、逆巻く轟音も消え失せ、ただ不思議な静寂の中で自分の唱える経の声だけが頭の中で、自然に湧き出してくる音のように響く。そして、体は静かな揺らぎとともに宙を漂っているように感じられる。
このとき、意識は自分の肉体を離れ、間近に漂いながらも隔絶された次元にある。慣れた滝行者ならば隔絶された体と意識の間に細い紐帯を保っていて、いつでも意識を肉体に引き戻すことができる。だが、未熟な行者では、このまま肉体と意識が永遠に分離してしまう危険に晒される。それを注意深く見守り、常に「こちら」の世界から行者の意識の手綱を握っているのが先達の大きな役目だ。
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