宮内勝典という作家は、物事を徹底的に対自化し、自分が主人公に同化して「生きる」ことを通して作品に魂を吹き込む。そして、いつも人間性の奥深い洞窟をテーマとしていく。それは、身も心もたいへんな辛苦を味わう苦行といっていい。だからこそ、そこから紡ぎだされる言葉に重いリアリティが宿ることになる。
この本の表紙は、どこかで見た覚えのある一重の衣を素肌に巻いただけのやせ細った老人が、両脇の女性の肩に縋ってなんとか歩いている写真が使われている。痩せた男はインド建国の父、ガンジー。
『聖人』というレッテルが貼られたガンジーという人間に、宮内は『魔王』というまったく対照的なレッテルを貼り付ける。そして、ガンジーの足跡を現地に追いながら、『聖人』と『魔王』、両方の極を行き来するガンジーになって考え、そこに宮内自身の生き様を投影しながら、人の哀しさと崇高さを表出させていく。
欲望や虚栄心、無知が生み出す人間の中の魔王の側面、いっぽうその対局にある崇高な聖人の側面。ガンジーは巷間伝えられるような純粋な聖人などではなく本来的に魔王であり、ときに聖人へ向かって振れていくという人生を生きた。その振幅の大きさは、じつは宮内自身にも当てはまる。
この作品を読み始めて、すぐにある言葉が脳裏に浮かんだ。
それは、「同行二人」という言葉だ。ガンジーの足跡を辿る宮内にガンジーの魂が寄り添い、二つの魂が、「今」という混沌の世界を巡礼していく。
若いガンジーは非常に「俗」な精神の若者だった。それが第一次、第二次世界大戦とその前後という混沌の時代の中で揉まれるうちに「非暴力」というロジックを生み出し、聖人への道を進んでいく。いっぽう、若い宮内は60年代のアメリカというベトナム戦争とサイケデリックのごった煮の中に飛び込んでいき、様々な矛盾や「俗」を経験した後、最終的に「非戦」というロジックを生み出す。
よく似た魂が、同じような混沌の時代と向きあう姿が「同行二人」というイメージを喚起するのかもしれない。
「国父」と崇められ、全てのインド紙幣に清貧の姿が印刷されるガンジー。「マハトマ=聖人」ガンジーのイメージはあまりにも強固で、宮内も当初はそれを信じていた。ところが、インドでガンジーの名を口にすると嘲笑する人間たちが少なからずいることに気づき、興味を持つ。
ガンジーとの同行二人の巡礼から、清貧を説きながら財閥に支えられ、断食という行為を狡猾に活用して政治的脅迫を行い、さらに、老いて少女の肌の温もりを求める「魔王」ガンジーを発見する。そこには、近寄り難い聖人ではない、哀しい魔王のガンジーがいる。だからこそ、ガンジーに対する親近感が生まれ、最終的に彼が聖人であることの意味が重みを持つことになる。
自分の弟子であったジンナーに対する嫉妬と冷たいあしらいが、ヒンズー教徒とイスラム教徒の深刻な対立を生み出し、パキスタン独立の引き金となる。
インドの列車といえば、すし詰めの車両から人がはみ出し、屋根からもこぼれ落ちんばかりに人がひしめくのがあたりまえの状態だが、ある日、イスラムの地域を通り越してきた列車は屋根に人の姿はなく、やけに静まり返っている。ホームに静かに入ってきた、車両のドアを開けると、惨殺された死体の山があった。運転士だけが殺戮を免れ、ヒンズー教徒に対する見せしめのための列車を運転させられた。そして、報復が繰り返されていく。
「非暴力」を説いたガンジーが最後に生み出したのは、これ以上にない惨たらしい暴力だった。
そして、ガンジーは、殺し合いで血の海と化したコルカタに女弟子の肩に縋りながら乗り込み、ここで再び、健気に「非暴力」を説いてまわる。そこにはまさにマハトマとしてのガンジーがあった。
インドという国は、仏教発祥の国でありながら、仏教はほとんど消し去られたも同然となり、イスラムと穏やかに共存していたかと思うと国を分けて血みどろの戦いに突入してしまう。また、根深いカーストを抱えながらIT大国として躍進している。歴史教科書を読んだだけでは正体がつかめない国だが、ガンジーの矛盾を宮内が背負いながら案内してくれることで、この国の輪郭が次第にはっきりしてくる。それが、まさしく現代社会の哀しい縮図であることも……。
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