実在する「サラエボ・ハガダー」と呼ばれるユダヤ祈祷書の稀覯本。500年前に作られたこの本は、偶像崇拝を否定するユダヤの祈祷書でありながら、誰もが一目で魅了される細密な絵物語が描かれている。
何故、偶像崇拝否定のユダヤ教に、曼荼羅のような絵解きの祈祷書があったのか。そして、何故それが民族紛争の泥沼にあった現代のサラエボで発見されたのか。
第二次大戦中、ユダヤ人のみならずユダヤ文化そのものの痕跡をこの世から消し去ろうとしたナチス。そのナチスからこの祈祷書を命をかけて守ったのは、一人のイスラム教徒の学芸員だった。そんな史実を元にこの物語は始まる。
500年に渡るこの祈祷書の遍歴を追うことで、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教という本来は同根であったはずの宗教が互いに血みどろの憎しみあいに陥ってしまう歴史を物語っていく。
15世紀のスペインには『コンビベンシア』という異なる宗教の人々が平和に共存する時代があった。じつは、サラエボ・ハガダーはこの時代に、三大宗教それぞれの最高の宗教芸術の合体した結晶として生まれた。
だが、コンビベンシアはつかの間の宗教融和の時代に終わってしまう。それに続くレコンキスタ、異端審問、ゲットー、ナチス、そして旧ユーゴの宗教対立。コンビベンシアは「共産主義の優等生」として多民族が融和したチトー政権時代のユーゴとだぶる。平和の象徴としてのオリンピックが開かれたユーゴの首都サラエボにこのハガダーが出現するのは、歴史の皮肉なのかそれとも運命なのか……。
互いの共通点に目を向け、共存共栄を果たしていたはずの理性が、ほんの些細な行き違いからほころびはじめ、悲惨な崩壊へとまっしぐらに突き進んでしまう。理性はどこかに消し飛び、昨日まで仲良く付き合ってきた隣人同士が果てしない憎悪を抱いて殺し合う。現代史で散々見せつけられてきたことが、ハガダーの来歴からは、それがまるで避けられない歴史の不動のサイクルのように見える。「人類みな兄弟……だからこそ、些細な違いが目につき、根深い近親憎悪へと繋がっていく」とでも言っているかのように。
作者のジェラルディン・ブルックスはウォール・ストリート・ジャーナルの記者として、ボスニア、ソマリア、中東の最前線を渡り歩いた経歴を持つ。自身が、なんともやりきれない民族対立や宗教間憎悪を肌で感じ、しかし、ジャーナリズムの手法の限界も同時に痛感する。そこで、小説という方法で、民族対立=近親憎悪のバカバカしさを暴きだすことにした。
それはとても成功していると思う。
戦争責任は特定の指導者だけにあるのではなく、雰囲気に流されやすい庶民にこそある。ここで、どれだけ理を説いても聞く耳をもたれることはない。でも、一冊の祈祷書に関わった500年に渡る人々の物語を読めば、どれだけ人間が愚行を繰り返し、庶民の無知が為政者に利用されてきたかが身に染みる。
また、為政者にどんなに煽られようが、あるいは迫害されようが、理性を失わず、雰囲気に流されなかった「良心」も存在してきたということもわかる。ハガダーが現代にまで受け継がれたのは、そうした「良心」の手ずから手ずへと奇跡的にも受け渡されてきたからだった。そこには絶望の中の微かな救いがある。信念を貫き、良心を持ち続けることの大切さが込められている。これは、犯人探しや状況分析のジャーナリズムには成し得ない。
古書にまつわる物語といえば、そこに記された内容そのものをテーマとするものが圧倒的に多い。曰く、テンプル騎士団の隠された財宝にまつわる暗号だとか、失われた叡智について記された謎の写本だとか、ところが、この作品でモチーフにされるハガダーは、その内容に謎が含まれているわけではない。
偶像崇拝を否定するユダヤ教の祈祷書に壮麗な絵解き物語が記されていることはたしかに大きな謎だが、その絵が表すのは祈祷書の文言を絵に置き換えたものにすぎない。
この作品で問題にされるのは、ハガダーの書かれた羊皮紙についたシミやページの間に挟まった微小なゴミや毛などで、これを古書鑑定家である主人公が推理していく。ハガダーをプロファイリングしていく極上の鑑識物語とでもいえばいいだろうか。
随所に現れる科学的な鑑定の手法は、「古書鑑定」という言葉のイメージとは正反対に、インクやシミのガスクロマトグラフィ分析やゴミの分光分析など、科学的読み物としても興味深い。
そこに、ヨーロッパや中東史、宗教学、民族学の知見が絡み、とても高度な教養小説として、読者を力強く引っ張っていく。
久しぶりに、様々な意味で知的興奮を掻き立てられる小説だった。
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