『薔薇の名前』で中世カトリックのうしろ暗い異端審問の実態と異端に惹かれる修道士たちの矛盾を描き、『フーコーの振り子』では中世の異端者たちに心奪われる現代の陰謀論者たちの哀れさを嗤い、大航海時代を背景にした『前日島』では、日付変更線上の孤島で孤立し、線の向こうとこちらを行き来するように絶望の現在と幻想の過去を行き来する男の目を通して異端や錬金術の虚しさを伝えた。
そして、この『バウドリーノ』では、舞台をまた中世に戻し、キリスト教の教えに忠実でありながら、だからこそ異端へと傾斜していく男の長い遍歴を追っていく。
エーコの思想の根底にはあるのは、一見、無神論のようだが、じつはエーコ独自の「神」という大きな存在を肯定した上で、「超神」のレベルへ精神を止揚することを彼が求めていることが明らかにされる。
中世のおどろおどろしい暗黒の精神の中に、修道士ウイリアムが垣間見せてくれる光明。洗練された文明の中で優雅に生きているように見える現代人の精神の根底に蠢く中世と同じ暗黒世界。あまりにも明るくものの輪郭がかすれてしまうような南海の孤島で主人公が向きあうカオス。『バウドリーノ』以前の三部作では、キリスト教社会のアイロニーがこれでもかこれでもかと暴きだされる。だが、そのいずれもが救いようのない結末を迎えながら、何故かカラッと乾いた印象を残す。
一方、『バウドリーノ』では、先のまったく読めないカオスの渦の中を泳ぎ回され、嘘、虚飾、暴力、裏切り、そして暗愚に直面させられていく。でも、そんな中で、奇跡的とも思える小さな良心や信念、そして愛が見出される。
信仰に忠実であると自分で自分に嘘をついていることにも気づかぬまま、だからこそ信仰を貶めてしまうバウドリーノ。彼は、自分に与えられた運命を肯定し、その波に実に上手に乗っていけたがために、信頼や名声、富をやすやすと手に入れる。
救いようのない世界に生きる救いようのないバウドリーノは、しかし、ついに自分の意志を掴み、それにしたがって生きることで、希望へと向かっていく。
前三作が希望のない結末でありながらどこかあっけらかんとしているのに、本作は希望へ向かって終りながら、なぜか素直に喜べないわだかまりのようなものが残る。あっけらかんとした結末の後に思考が止まってしまうような前三作とは対照的に、希望があることに間違いはなく、覚悟を持って希望を見出していこうという気分にさせられる。
それは、あたかも、エーコがこう言っているかのようだ。「希望を持つのはたやすい。でも、それに向かって進んでいくのはそんなにたやすいものではない。何度も何度も絶望を味わわされ、無力感と喪失感に心を丸ごと侵され、それでもまだ立ち上がって、希望へ向かって進んでいくことがあなたにはできるか」と。
3.11以降、世に溢れかえる嘘や欺瞞、自分勝手や偽善、暗愚と向き合わされ、こんな最低の国に生まれてしまったことが恥ずかしく思えてしまったが、バウドリーノの世界を辿ることで、救われた気がした。
前三作を含めてこの四作は、今だからこそ読まなければならないテクストだと思う。
ところで、バウドリーノを読み終わって、これですっかりエーコの中世四部作もしくは神学四部作を持ってこの世界は完結したのかと思ったが、すでに5作目は出版され、6作目もまもなく発表されるという。それらが一日も早く翻訳出版されてほしい。
エーコの作品を読んでいると、ぼくはトールキンの『指輪物語』を思い出す。
エーコは記号学の大家であり、トールキンは言語学者だった。二人ともアカデミズムの巨人でありながら独創的なストーリーテラーであるという共通点がある。どうして堅物の学者が自由で柔軟な思考のストーリーテラーでもありえるのか。それは、トールキンが自分の愛する孫に物語を創作して聴かせ、それが結実したように、エーコにも「優秀」な読者が身近にいるからではないのかと思わされる。
そうそう、『バウドリーノ』では、指輪物語を彷彿させる奇想天外な冒険譚が挿入されるが、それは、理想と団結と信頼を軸に始まりながらクライマックスで、そのすべてが裏切られるスラップスティックとなる。あまりにもバカバカしすぎて腹を抱えて笑ってしまたのだが、これは、トールキンに対するエーコなりのオマージュともとれるし逆に強烈な揶揄ともとれた。3.11以降の日本に置き換えれば、権威や社会システムそのもののアイロニーとも受け取れるが……。
エーコには思い入れが強いせいで、書きだすと止まらなくなってしまうが、最後に本作の中のいちばん印象的な言葉を紹介して終りにしよう。
……私たちはふだん、私たちが神を必要としているとしか考えないが、神のほうが私たちを必要としていることもしばしばあるもの。そんなとき、神を助ける必要がある……
「神」を「自然」に置き換えてみれば、まさに現代に当てはまる。
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