今回の東日本大震災の被災者のみなさん、ご遺族のみなさん、心からお見舞いとお悔やみを申し上げます。
11日は、さいたまの自宅で仕事中に妙に緩慢な揺れがはじまったかと思うと、それが次第に大きくなり、そして永遠に続くのではないかと思えるほど長い揺れが続きました。
「あぁ、これは震源地が大変だ」とその瞬間思いましたが、まさか、ここまでの悲惨な状況とは……。
すぐさま、茨城の実家の母親に電話をすると、奇跡的に通じ、茨城県鉾田市の実家も震源の一つの直近であったため、倒壊した家屋や、道路の陥没、橋の崩落などひどい有様になっていることを知りました。
実家も半壊したとのことで、一刻も早く駆けつけたかったのですが、道が寸断されているとのことと、東北へ向かう救援隊の邪魔になってもいけないと、踏みとどまりました。
その後、しばらく連絡がつかなくなり、半日ほどしてまた回線がつながると、ライフラインはすべて途切れ、テレビも見られないので情報が何も無いとのこと。
そこで、ぼくはテレビをつけっぱなしにし、ネットで情報を集めて、適宜、田舎の母親に伝え続けました。
かつて、JCO事故を経験し、そのとき、国道51号線が封鎖されて戒厳令のような有様だったことや住民の被爆、後の風評被害などを目の当たりにした地元の人達にとっては、福島原発の事故がとくにショッキングでした。
幸いにも、直近にある東海第二原発は津波に洗われたものの、補助電源による冷却が効いて、今のところは安定を保っているようです。
それにしても、地震と津波で酷い被害を受けた上に、原子力災害の危機に追い打ちされている東北の被災地の皆さんのことを思うと、胸が塞がります。
原発災害は、放射能が検出されたときにはすでに遅いのです。避難できるならば、危険性があるという時点でできるたけ遠くに非難し、それができなければ密閉性の高い建物に篭って、なるべく外気に身を晒さないようにしなければなりません。
JCOのときは、子供たちを学校から帰したためにかえって被爆被害を大きくしてしまいました。
子供たちは、たとえ微量でも放射性物質を吸い込んで内部被曝してしまうと、長い将来に渡って、がんや白血病などの高いリスクを負ってしまいます。
今の東京電力や政府の発表を信じたいのですが、JCOやそれ以前の原発事故の際の対応を考えると、初期の発表を鵜呑みにすることはとてもできません。公式発表など待っていないで、常に最悪の事態を考えて、それに基づいて行動しなければ、本当に最悪の事態が起こったときには、もう手遅れとなってしまいます。
そこで、絶えず、状況を地元に伝え続け、ソーシャルメディアを通じても流し続けています。
もちろん、杞憂に終わればそれに越したことはないし、なんとか最悪の事態になる前に収束してほしいと祈り続けています。
地震と津波災害だけでも、ほんとうに胸が張り裂ける思いです。今回被災した地方は、ぼくにとって馴染みの深い土地がたくさんありますし、友人も多くいます。宮古も久慈も大船渡も釜石も志津川も、みんな思い出深い土地です。
あの長閑な港町が丸ごと波に飲み込まれ、素朴で優しい人達が海の藻屑となってしまった……。こんなことが現実に起きようとは、夢にも思いませんでした。
今年に入って、このコラムで父の享年を越えた話を書きましたが、今朝、亡くなってから二度目の父の夢を見ました。その夢で、盆栽好きだった父は何故がとても長い刺のついたサボテンの盆栽を抱え持ち、それをぼくのむき出しの腕に押し付けてきました。そのあまりの痛さと父の恐ろしい形相に、ぼくは思わず悲鳴をあげて飛び起きました。
その後、ずっと胸騒ぎが続いていたのですが、それがこんな形で現実になろうとは……。明日か明後日には、なんとか救援物資を持って、実家に辿り着こうと思っています。
さらに、もっと甚大な被害を受けた東北の方たちに出来る限りのことをしようと思います。
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