死にたい…
そう思うことは、いけないことだろうか?
何かに追いつめられたり、何もうまくいかなくて絶望して死にたいと思うのではない。
一日空を覆っていた雲が、夜になってワイパーで拭ったように晴れ、深海のような虚空に輪郭のはっきりした月と、刺すような光を投げる星が現れた。宇宙と大気圏とを分ける帳が撥ね上げられて、地上にあるものが宇宙へと拡散してしまいそうな、そんな空を見上げて、「死にたい」と思った。
黙々と足元だけを見つめながら山道を登りつめ、気がつくと峠に出て景色が開ける。そんな時、感情がすっぽり抜け、開けた景色を前に腑抜けて立ち尽くすことがある。
ため息が出そうな景色と対峙して、しばし腑抜けたあとで、「綺麗だなあ」と無意識に言葉が漏れるように、当たり前のように「死にたい」という言葉が湧き上がった。
全くネガティブでなく、といって死に憧れるというのでもなく、ごく自然な感嘆詞としての「死」という言葉。「死にたい」と呟いて、気持ちがゆったりする感覚。
いく度か、このコラムにも書いているが、ぼくは、ある光景を子供の頃から白昼夢のように時々見てきた。
周りに何もない、全周が地平線の草原。ぼくはポツリとその真ん中に一人で佇んでいる。雲が流れ、太陽と月が何度も何度も天球を通り過ぎ、ぼくは何もしないまま風化していく。そして、ぼくの体は最後に一掴みの砂となり、一陣の風がその砂を吹き払っていく。
若い頃は、そんな風景への憧憬が高山や砂漠へと向けさせた。
雨に洗われた空に浮かんだ月と星を見て、あの心象風景が蘇った。そして、冴え冴えとした月によって虚空に吸い上げられて、広大無辺な虚空で風化するように死にたいと、ふと思ったのだ。
>ゆめさん
私は、介護の経験はありませんが、94歳で大往生した祖母がさすがに晩年は少し痴呆気味になって、いろいろありました。
私はおばあちゃん子で、明治に生まれて日本でも最初期の看護婦・助産婦として若い時代を気丈に過ごした祖母は、あらゆることの先生でもありました。
80歳を過ぎても、拡大鏡を片手に新聞を隅から隅まで読み、140cm足らずの小さな体を独楽鼠のように動かして、家事全般に畑の手入れなどしていました。
正義感が厚く、コミュニティの長老、相談役として人にもいろいろ世話を焼いていた祖母を本当に尊敬していました。
その祖母が痴呆になって、誰でもいずれはこんなふうになるんだなと思う反面、あの祖母がわけのわからないことを口走ったり行動することが信じられませんでした。
あるとき、少し落ち着いていて、こたつに差し向かいで入っていたのですが、ふと昔ながらのまともな目をして、「みんなあの世に行っちまったよ。早く私にもお迎えがこないかなぁ」とぼそっとつぶやきました。
介護というほどではないですけれど、人に厄介をかけている自分というものにどこか気づいていて、この人はそんなふうになった自分が許せない気持があったのだろうなと、そのときふと思いました。
赤ん坊に手がかかるように、ほんとうは、死へ向かっていく年寄りにも幕引きに向けての段取りというかケアを周りのものがしてあげなければいけないんだろうなと思います。それを子育てが楽しいように、年寄りを見送ってあげることも最後には見送る側にとっても喜びに感じられるような、そんな環境を社会が築きあげていくべきなんだろうなとも思います。
祖母の痴呆が始まってしばらくしてから、祖母は腰が痛くて立ち上がれなくなり、母に運ばれて病院へ行きました。
そのとき、祖母を見た若い医者が、「おばあちゃんはもう歳で、背骨がすり減ってしまっているから、もう立つことはできないんだよ」と、淡々と言ったそうです。
その言葉を聞いた祖母は急にまともな表情になって、「おまえは医者だろ、医者が患者を絶望させるようなことを言っていいと思っているのか!!」と激高したそうです。
その後、家の中をリハビリするように匍匐前進して動きまわるようになり、最後は、また普通に立って歩くようになりました…その後、徘徊がはじまって大変でしたが(笑)。
年寄りをあたかも「使用済み」の何かと見るような、そんな見方はけしてしてはいけないと、祖母の最後の生き様を見ていて思い知らされました。
なんだか話が脱線してしまってすいません。
投稿情報: uchida | 2010/12/12 12:13
いつも丁寧なコメントをありがとうございます。
『いろんな生きざまがあるように、いろんな死にざまがあっていいし、その中には、自死もあっていいと思います。』という文章に少し驚きましたが、次に続く文章で納得致しました。私も父がとても苦しんで亡くなった時『もう苦しまなくても良いんだね』というのが正直な気持ちでした。生きている人間にとって『死ぬ』ということはひとつの自然現象なのだということを素直に受け入れたいと思います。
朝起きてトイレに入って(変な話しですが)用を足して流せる水にも恵まれてさっぱりする時、有難いなぁと思います。一人で用を足せない年老いた姑を介護しているせいかもしれません。疲れた時はその姑の布団にちょっと入れてもらってぽかぽかと温かい体温を感じる時も『幸せだなぁ』と思います。そしてこんな気持ちで過ごしながら、或る日抜けるような青空を見上げて『今日は死ぬのにいい日』とさりげなく囁ける人であったら素敵だななんて思ったり、少しほっとした気持ちも分けていただきました。ありがとうございました。
投稿情報: ゆめ | 2010/12/10 23:28
>ゆめさん
コメントありがとうございます。
現実というのは、思うように行くことも少なくて、なかなか大変だと思うんですね。
でも、死が確実にやって来ることを思って、自分はどんな死を迎えたいかフォーカスすると、現実の困難をゆるりと乗り越えて行く気分になれるように思うんです。
私は、目の前で父が絶命し、その父の享年をあと一ヶ月で越えます。そのボーダーを過ぎれば、自分に与えられた小さな一つの責任を果たしたかなと思うんです。
若い時は、事故で死んだ仲間がたくさんいました。
歳をとってくると、精神的に疲れて、自ら死を選ぶ友人や身内がいました。
最近では、同年代の友人が次々に病死しています。闘病して、最後に、死を受け入れていった人たちは、ほとんどの人が穏やかな死を迎えて、何故か同じ言葉を最後に、残しました…「もう頑張らなくてもいいよね」と。
いろんな生きざまがあるように、いろんな死にざまがあっていいし、その中には、自死もあっていいと思います。
近しい人間の自殺に向き合った時は、自殺は残された人間を悲しめ苦しめるものだからいけないと思いましたが、今は、当人が苦しみから開放されたのだからそれでいいではないかと思います。
インディアンの格言だかに、「今日は死ぬのにいい日」という言葉がありますが、朝、起きて、突き抜けるような青空を見上げて、「今日は死ぬには最高の日だな」と清々しく思う。そんな感覚もまた、死から免れられない人間にとって、健全な心のあり様ではないかと思います。
投稿情報: uchida | 2010/12/08 13:12
タイトルにびっくりしました。冴え渡った大自然の神秘に包まれながら私もそんな感情に包まれてみたいと思いました。起きている時間の半分以上は、親の介護の時間に割かれていますので、そのような世界に憧れを抱きます。
投稿情報: ゆめ | 2010/12/08 00:40