もうずいぶん前から意図的なリークと思われる映像を見せられてきた「ザ・コーブ」が、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を取った。
和歌山県太地町の伝統的なイルカ漁が、「残虐行為」として糾弾されているが、 ほんとうにそれは残虐な行為なのだろうか? 大量生産した家畜を生き物扱いしない西洋の非情な文化が、縄文の時代から続く「命をいただく」 行為を否定する権利などもっているのだろうか?
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●イルカと交感するシャーマン●
イギリスの作家ライアル・ワトソンは、我々の身近で起こる不可思議な現象や、時折、自然が垣間見せる神秘をテーマに、
半世紀近くフィールドワークを行ってきた。
近年、ワトソンが提示したデータの出典が明らかでないものがあるとか、エピソードそのものがねつ造であるといった批判が出され、”
疑似科学”としてアカデミズムから排除される動きもある。
生前、ワトソンも一部のデータは客観性に欠ける出典から引用したことを認めたが、それは彼が残した作品のごく一部であり、
ほとんどすべての作品は、彼の体験に根ざした真摯なものであるとしていた。
ぼくは、ワトソンの作品の真偽について云々するつもりはない。一部、客観性に乏しいとしても、それは、彼の『作品』を貶めるものではない。
彼が"生命科学"として、臨んだ領域は、既存の科学では説明しきれない要素を含んでいたし、それは、ある意味、
"芸術"の領域であったと言っていい。
『水の惑星』で、ワトソンは生命を育む水をたっぷりと湛えた地球を宇宙の中でも奇跡的に希有な存在として、その美しさや水によって潤い、
歓喜する生命の躍動を叙情的な文章で伝えた。その中に、彼独特の推測が混じっていたとしても、ぼくは『水の惑星』
という作品すべてを否定する気にはなれない。それどころか、彼の想像力の飛躍によって、単なる科学論文では表せない、
心に響く作品になっていると思う。
そんなことを踏まえつつ、この章は、ワトソンの話から進めていきたいと思う。
無機物であるはずの車やオートバイがまるで意思を持ったかのように振舞う……オートバイ乗りにとっては少なからず心当たりのある現象から、
予感やデジャヴュなどの超感覚、地球のこちら側で"百匹目"の猿が物を洗って食べ始めると同時に地球の裏側でも猿が物を洗って食べ始める……
集合的無意識によって一つの種が空間的な隔たりを越えて進化を遂げる事象……等々。
ぼくたちが稀有なことと感じる不思議な出来事が、じつは日常にありふれていること。それらは単なる偶然の出来事ではなく、
起こるべくして起こること。そして、意識のあり方次第でコントロール可能なものではないかと説く。
そんなワトソンの"スーパーネイチャー"という著作の中に、南太平洋のとある島で、イルカの大群を呼び寄せるシャーマンの話が出てくる。
ある海岸に面したニッパヤシの葉で屋根を葺いただけの小屋に佇むひとりのシャーマン。彼は、村人の要請を受け、
海に向かって何日も祈っている。ワトソンは、その傍らで何が起こるのか、じっと見守っている。
ひたすら瞑想に耽り、祈りを捧げる日が何日か続いた後、シャーマンは突然立ち上がり、海へ向かって走り出す。
「彼らが、やってきた」
走りながら沖を指差すシャーマン。
必死で彼を追いかけるワトソン。だが、彼には何も見えない。
「ほら、もうそこまで来ている」
波打ち際で立ち止まったシャーマンは、沖を見つめて満足げに笑う。
ワトソンの目には、シャーマンが見つめる先には、ただのさざ波しか見えなかった。
しかし、見る間にそのさざ波は波頭をもたげ、黒い塊となって押し寄せてきた。
「津波……」
いや、それは数十、いや数百頭のイルカの群れだった。
気がつくと、二人の周りに村人たちが集まっている。
彼らは、イルカの姿を見ると、歓声をあげながら次々に海へ飛び込んでいく。そして、村人とイルカは、
まるで長く離れ離れになっていた兄弟が再会したかのように熱く抱擁し、そのまま踊るように岸へと向かってくる。
イルカが岸に"座礁"すると、彼をエスコートしてきた村人は、浜に置いてあった棍棒を手にとり、恍惚として身をまかせている兄弟の頭に、
感謝の言葉と祈りを唱えながら渾身の力をこめて振り下ろす……。
ワトソンのこのエピソードを読んだのは、もう20年以上前のことだが、その頃からずっと、イルカと人間との意識の交感ということが、
脳裏に引っかかっていた。
イルカやクジラが、まるで集団自殺するかのように狭い入り江や砂浜に押し寄せる現象を日本では、
古来から"寄りイルカ"と呼んでいたことを後に知った。ワトソンは、
その寄りイルカがシャーマンの力によって呼び寄せられたものだというわけだ。
ワトソンが紹介したエピソードに似た話が、キリバスにも伝わっている。
キリバスの話では、イルカを呼び寄せるシャーマンは自分の体から魂だけ抜け出して、海底にあるイルカの国へ旅をする。
そこでイルカの王に会い、歓待される。そのお返しに、イルカたちを自分の島へ来るように薦める。そして、
シャーマンの魂はイルカたちを連れて島へと戻ってくるとされている。
そんな話から思い出したのは、アイヌの"イヨマンテ"だった。
アイヌは、熊狩りの際に親熊を失った子熊をコタン(集落)に連れて帰り、それをコタンの大切な子供として、直接母乳を与えて大事に育てる。
その熊が大きく成長したとき、村の真ん中に大きな祭壇を設け、多くの貢物と一緒に屠って、熊の神の元へ送る。
熊の神の元に送られたこの熊は、村人たちの願いを自らの神に伝える。それによって、村にはさらなる獲物がもたらされるとされる。
アイヌでは、シャーマンが脱魂してあの世に行くのではなく、シャーマンの魂の代わりに、
自分たちの意志を伝えるメッセンジャーとして熊の魂を送るわけだが、
その魂が多くの獲物を引き連れて戻ってくるという構図はキリバスの例に極似している。
そんな”霊”の世界で動物の魂と交流し、恵みをもたらしてもらうといった考え方は日本では縄文時代から存在していたらしい。
能登半島東岸にある縄文真脇遺跡では、おびただしい数のイルカの骨が出土し、
その中には明らかに儀式に用いられたと思われる加工が施されたものも数多く含まれている。
しかも、彼ら縄文人たちが行ったであろうイルカ呼びの儀式を連想させる儀式が、明治期までこの周辺には伝えられていた。
●能登に存在した"イルカ呼び"●
キリバスのようなイルカを呼ぶシャーマンが能登にもいたのではないか……あるいは今もいるのではないか? 手がかりを掴むと、
いてもたってもいられなくなり、うららかな春のある日、オートバイを走らせた。
北陸自動車道を富山ICで降り、高岡から氷見と抜けて、能登半島の東海岸を北上して行く。この路線は、富山湾を挟んで、
立山連峰が屏風のように立ち上がる絶景が名物だが、この日は残念ながら霞がかかって対岸の富山市の町並みまで見渡すすのがやっとだった。
能登は、海岸線を行けば、新鮮な魚介が揚がる港が入江ごとにあり、そこから少し山に入るだけで、長閑な田園風景になる。
山の斜面を効率よく愛情をこめて耕した"棚田"では、ちょうど田植えの時期で、水が張られた田には、
周囲の明るい広葉樹の里山が映りこんでいる。印象的なのは、里山の新緑に、様々な色合いが混じっていることだ。コブシの白、寒つばきの紅、
山桜、菜の花、足元には今を盛りとミズバショウが可憐な花を開いている。
毎年の夏、半分趣味で行っているツーリングマップの実走調査で、何度も能登を訪れているが、季節がほんの少し違うだけで、
まったく別の場所のように感じられる。あまりにもこの春の風景に散りばめられた色彩が豊かで、
ついついなんでもない村里の片隅にオートバイを停めて、景色に見入ってしまう。
奥能登、半島の先端までもう10㎞足らずという海岸に高倉彦神社がある。
昔から変わらない寒い冬の季節風を避けるための板塀を廻らした家が並ぶ集落。
その中の狭い路地をあらかじめ位置をプロットしてあるGPSに誘導されて進んでいく。
明らかによそ者のライダーがスイスイと路地を通り抜けていくので、すれ違う地元の人は訝しそうにこちらを振り返る。
そのまま目的地まで行ってしまってもいいのだが、あえてオートバイを停めて、道端でじっとこちらを見ていた老婆に話しかける。
「すいません、高倉彦神社はこっちでいいんですか?」
「高倉彦神社? ああ、すぐそこだけど、ちっちゃな村のお宮様だよ。……ところで、どこから来なさったん?」
「東京です」
「はぁ、わざわざ東京から……こんな小さな集落のお宮様に、お参りにかい?」
そこで、聖地を結ぶラインや聖地の構造を調べているのだと説明する。
すると、ますます訝しい目で見られるかと思いきや、老婆は急に穏やかな顔つきになる。
「昔の人たちは、賢かったからのお。どこのお宮様も、どうしてそこに置かれたのかとか、向きだとか、祭りの作法だとか、
全部意味があると言いますわなぁ。この高倉彦の神さんも、なんでもイルカの神さんだというけど、わしらは、すっかり忘れてしまいました……
そんなことを調べていなさるのかい、それはそれはご苦労様です」
深々と、お辞儀までされて、恐縮してしまう。
聖地を巡る旅をしていると、しばしばこうしたことがある。
普段、東京で聖地巡りやレイラインについて話をすると、ニューエイジかぶれの少しネジがゆるんだ奴と敬遠されるか、
当のニューエイジかぶれに熱烈に支持されるのがオチだが、田舎では、この老婆のようにさりげなく当然のように理解を示してくれることが多い。
地方の郷土史家を訪ねたり、博物館や図書館に立ち寄って調べものをしていても、色眼鏡で見られることはないし、
対応してくれた相手は純粋に興味を持ってくれる。そんなところに、自然と常に接してその裏にあるものの気配を感じながら暮らしている田舎と、
自然から疎外されて頭だけで考える都会の違いを感じてしまう。
ある放送局のプロデューサーが、レイラインをテーマに番組を作りたいと訪ねてきたことがあった。彼は、初対面の挨拶を済ませるなり、
「それで、レイラインを辿ると、どんなお宝が見つかるんですか?」
と真顔で言い放った。
「視聴者は、具体的な手に取れるようなお宝が出てこないと満足できないんですよ」
そんなインスタントに結果がわかるようなことばかりだったら、世界は恐ろしく単調なものになってしまうだろう。
「レイラインそのものがお宝じゃないか」
と、しつこく説明したが、ついに彼には理解してもらえなかった。目に見える答えや結果を性急に求めることが賢いことだとは、
ぼくには到底思えない。
老婆が教えてくれた径を行くと、すぐに目指す高倉彦神社に着いた。
北側に白く長い砂浜、南側に小さな漁港を持つ入り江を分ける岬。この岬全体が神社の神域で、本殿とは別に、
ふたつの社がエメラルドグリーンの日本海を見つめるように並んで建っている。
その社を背に砂浜に腰を下ろす。
こちら背を向けて、同じように海を見つめている一組のカモメの番とともに、打ち寄せる波音を聞きながら沖を眺めていると、
今しもイルカの大群が押し寄せてきそうな気がしてくる。
かつて、奥能登の東海岸ではイルカ漁が盛んに行われていた。そして、
高倉彦神社はイルカをもたらす神として漁民の間で古来から崇敬を集めてきた。
江戸時代末期に北村穀実が残した能登国漁業図絵は、能登での様々な漁業の様子を紹介しているが、
その中に高倉彦神社周辺でのイルカ漁の様子も克明に描かれている。
そこには、狭い入り江に集まった寄りイルカの群れの中に褌ひとつで飛び込み、イルカに抱きついたまま岸へ向かう漁師の姿がある。
「この魚、人に馴染み易い魚ゆえ、漁師どもはイルカの中へ飛びこみ、人肌につけ、抱き上げるなり」そう絵に記された注釈は、ライアル・
ワトソンが目撃した現代の南太平洋の島の逸話とぴったり一致する。
北村穀実が描いた寄りイルカ漁で揚げられたその年最初のイルカは"初穂"と呼ばれ、高倉彦神社に奉納された。
天保時代、その初穂を巡って、一つの事件が持ち上がる。
当時は神仏習合が盛んに行われた時代で、行政によって無理に統合された神社と寺がおのおのの利害を巡って対立することが多かった。
高倉彦神社もその例外ではなく、神主高原氏と真言宗上日寺の僧との間で高倉彦神社の支配を巡って争いが起こった。
結局、村人は残らず上日寺の檀家であったため、寺僧に押し切られる形で、神主は名前だけの存在となり、
供物等のことは上日寺が仕切ることになった。
そして、殺生を嫌う仏門の習いから、それまでずっと続けられてきた"初穂"の習慣が突然廃止される。すると、毎年決まって、
浦へやってきていたイルカがまったく姿を見せなくなった。
高倉彦神社の氏子だった漁師たちは、これはイルカの国へ恵みをもたらすように伝える初穂がなくなったためだとして、
今度は神主高原氏を後押しして、"初穂"を復活させる。すると、再び以前のように寄りイルカが浦へ押し寄せるようになった。
高倉彦神社の南西にある真脇遺跡は、縄文時代全期を通して栄えた大規模集落跡だが、ここからは、
たくさんのイルカの骨の化石が発掘されている。祭儀場の跡からも様々な加工が施された骨がたくさん見つかり、
ここに住んだ縄文人たちがアイヌのイヨマンテ(熊送り)と同じようなイルカの魂をあの世へ送る儀式を行っていたと推測されている。
"初穂"は、遠く7000年前の縄文時代初期から受け継がれてイルカ送りの儀式だったのかもしれない。
だが、その”初穂"も、文明化の波に飲まれ、明治から大正に移る頃にはついに途絶される。
以後、この沿岸にイルカがやってくることはなくなった。今は、かつてこの地方ではイルカ漁が盛んで、初穂という儀式が行われていたと、
土地の古老の記憶の底に微かに残るだけとなった。
『レイラインハンティング』
「第八章 イルカ伝説と泰澄」から抜粋
http://www.ley-line.net/index.html
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