前回のエントリーで少し触れた『十一面観音巡礼』と『火の路』だが、奥付を見ると、前者は1975年に初版、 後者は1978年に初版が出版されている。
読み進めていて、話の展開のリズムがとても心地よく感じた。リズムというのは著者の語調という意味ではなくて、 著作の中で動く人のテンポ、物語の時間の流れのことだ。
1970年代の終盤といえば、ぼくは高校3年生くらいの頃。
電話はもちろんあったが、よほど急ぎでないかぎり、コミュニケーションの主役は郵便だった。
高校三年の夏休みに、白馬の学生村で一ヶ月暮らし、同じ民宿に泊まっていた女の子と、その場では気軽に声を掛けられなくて、 それでも実家に戻ってから気になって、手紙を出した。しばらくして返事が届き、幾度か文通した。他愛もない近況をしたためて手紙を送り、 その返事が来るまで10日くらい掛かっただろうか。今ならその場でメールアドレスを交換して、 1日と間をおかずに何通もメッセージをやりとりするのだろうが、当時は、10日という時間が切なくもあり、 さしたる変化もない時間の流れの中で、そこそこの話題を紡ぐのにちょうどいい間だった。
『十一面観音巡礼』では、各地の十一面観音を行脚する白洲さんが、事前に得られる情報も少ないままに、道に迷いかけたり、 確信を持てずにおそるおそる寺の門を叩いたりして、目的の観音様に出会うまでが十分に物語りとなっている。
今では、まずwikiで概要を調べ、さらには寺の公式サイトや個人サイトで必要十分以上の情報をたちどころに集めることができる。 さらに現場に行くにも、カーナビに導かれ、最短の時間で間違いなくたどり着くことができる。
喫緊の調べものや事務的な作業には、今の洗練された情報システムは確かに重宝だが、逆に漠然とした興味の元に出掛けていって、 目的のモノ以外の出会いが深い印象を刻んだり、目的のものに出会うまでに困難があって、 それを乗り越えてようやく出会えたときの感動といったことが今では薄くなってしまっているような気がする。
目的の場所までの道もよくわからず、実物がどんなものかも事前にははっきりしないまま、 ときには土地の人に道案内を請いながら辿っていく白洲さんの様子、道々出会う自然の風景や土地の人情の描写に、 十一面観音という目的はあっても、その目的にたどり着くまでの様々なプロセスが「旅」であり、その旅は十一面観音の「導き」なのだと、 しんみりと思わせられる。
松本清張のほうは、古代史の謎解きというテーマを軸としたサスペンスなのだが、登場人物たちの交流はもっぱら郵便で、 情報を集めるにも、自分で出掛けていって、人と相対してと、今にすればとても悠長だ。
謎の本質に早く行き着きたいと思うものだから、はじめは展開の悠長さがもどかしく感じたりもしたが、次第に、 物語のリズムのほうに慣れてきて、その深呼吸しながら進んでいくようなリズムがとても心地良く思えてきた。
この著作を読み終えたとき、人のペースというのは、これが書かれた時代のほうが合っていたように思えた。
自分の記憶とも考え合わせると、当時は、もっと人が地に足をつけて物事に向かっていたような気がする。 幻想を積み重ねた金融経済に踊らされ、情報の洪水によって欲望を掻き立てられて、みんなが浮き足立ち、自分が人より得をすることしか考えず… …この30年間、どんどんペースを上げて、ついに全力疾走を続けるようになった人類が、息切れするのは当たり前だろう。
ぼくが白馬で知り合い、文通をしていた彼女からは、しばらくすると、10日を過ぎても返事が届かなくなった。そして、 一ヶ月が経ってようやく届いた手紙には、「好きな人ができて、その人とつきあい始めたので、文通は終わりにしましょう」 さりげなく書かれていた。
文面はさりげなかったが、彼女は、なるべくぼくを傷つけないようにしようと、何度も文案を考えて、でも、 簡潔に表現するしかなかったのだろう。
それは、ほのぼのとして、今でもいい思い出だ。
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