『エコフォビア』という言葉がある。自然忌避、自然恐怖とでも訳せばいいのだろうか。
京都会議以降、世界中で高まった環境保護意識。そして、環境汚染や地球温暖化の危機を伝える様々な情報。そんな中で、 環境教育の必要性が叫ばれ、地球温暖化を食い止めるために、自分たちに何ができるのか、 何をしなければならないのかといったことを子供のうちから考えさせるようになった。
しかし、子供たちに対するファナティックともいえる環境教育は、果たして本当に、今後の地球環境にとって効果的なのか、 そもそも子供たちの健全な成長にとって、それはいいことなのか? まだ幼く、 でもそれ故に想像力のたくましい子供たちに悲惨な環境汚染の様子や温暖化がもたらす影響などを教えることが、 逆に子供たちにエコフォビアをもたらし、自然から疎外してしまう結果に繋がると、著者のデビッド・ソベルは訴える。
自然環境教育はもちろん大切だが、少なくとも、感情的、認識的に、これらの事柄を理解できるような年齢に達するまでは、 今行われているような環境教育は行うべきではないと。
たしかに、身近に自然に接したことのない都会の子供たちが、いきなりグローバルなテーマである環境問題を学習させられて、 頭でっかちな理屈で凝り固まってしまっている様子を度々見かける。
小学校で、地球温暖化に関する授業を行い、作文を書かせると、じつに『正しい』、『模範的』な作文が提出される。そして、 マイクを向けられた子供たちは、古館一郎がニュースコメントするように厳めしい表情を作って、同じような言葉を吐く。ところが、 そういう子は、実際に自然に接したときには小さな昆虫に触ることもできず、土や泥で汚れるのを嫌って、森に入っていくこともできない……。
観念よりも、体で自然と接し、情操で自然を捉えるべきなのに、大人の理屈で先入観を形作られてしまう。
そもそも、子供に限らず、自然教育を行う立場にある大人のほうが、自然と接した経験が乏しく、 マニュアルで覚えたことが全てだと勘違いして、「子供たちに自然の素晴らしさと、それを守らなければいけないことを教えたい」 などといって胸を張っている人間が目立つ。
そんな人間に限って、マニュアルを外れるような事態に遭遇したときに、真っ先にパニックを起こしてしまったりする。あるいは、 子供相手だと偉そうにいろんなことを説明しているけれど、フィールドワークの中で本人に作業をさせると、 明らかにロープやらナイフやらの扱いに慣れていなくて、手際が悪いだけでなく、自分も周囲の人間も危険に晒してしまう。
ソベルがこの著作で言うように、環境教育を云々する前に、まず子供たちに身近な自然に触れさせ、 自分が自然の一部であることを実感してもらうことが大切であると同時に、そうした行動に促す大人たちも、今一度、自然に接しなおして、 自らの自然界での位置というものを捕らえなおす必要があるだろう。
『自然を守る』などという言説がいかにおこがましいものであるか、自分は自然に生かされているものであると実感できれば、 「自然を守る」のではなく、自然に感謝し、大切な自然を汚してしまったことを詫びて、「お返し」 をするといった意識が当たり前のように芽生えるはずだ。
レイチェル・カーソンは『沈黙の春』で環境ホルモンによる生態系の破壊を暴露すると同時に、『センス・オブ・ワンダー』で、 自分のかわいい甥に自然と接することの素晴らしさを説いた。それは、カーソン本人が、自然に接し、自然によって情操を形作られ、 だからこそ自然の危機を訴えるという発想が生まれたことを物語っている。
『足もとの自然から始めよう』は、日本では最近出版されたが、原著は1995年に出版され、 環境教育のあり方に大きな影響をもたらしたという。
今、欧米では、「ナチュラル・リテラシー」を育てることが環境教育の基本だとされ、その実践が広く行われているという。ナチュラル・ リテラシーとは、直接的な自然体験から学び、それに応答していく能力のことだ。
ソベルは、自身が運営するカリキュラムの中で、「鳥になる」体験のことを紹介している。 図鑑を持って管理されたバードサンクチュアリに出かけていってフィールドスコープを覗くのではなく、発泡スチロールを切りだして自分の「羽」 を作り、それを装着して森の中を走り回って、鳥になって遊ぶというものだ。
この体験によって、子供たちは、鳥の気分を味わい、鳥の目線で自然を見つめることで、図鑑を開くより多くのことを吸収する。本来、 遊びはそうしたバーチャルなもので、自分が「何か」になった空想をしながら、疑似体験して、多くのものを学んでいくことだろう。
「初めにゆっくり育てば育つほど木はしんがしっかりとするものだ。人もまた同じである」……ソベルが、 そんなソローの言葉を引用しているのが印象的だった。
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