先週、六本木のアーテリジェントスクールで、縄文文化研究の小林達雄氏の講演を聴いた。
冒頭、このスクールの主催者が、レヴィ・ストロースが、「縄文土器は5000年前に現れたアールヌーヴォー」 と評価していると紹介した。岡本太郎が、「芸術は爆発だ!!」と唱えたのは、縄文土器の斬新な意匠に感激したからというのは有名な話だが、 レヴィ・ストロースも縄文文化を高く評価していることは知らなかった。
環境破壊や食糧危機に悩む現代にとって、自然と調和を保ち、共生していた縄文は、 人類が生き延びるための一つの指針になるのではないかと期待されている。
採集・狩猟と若干の栽培農業を行っていたとされる縄文文化は、世界史的に見ると『遅れた文明』とみなされるが、じつは精神性の点で、 他のいかなる文明よりも進んでいたのではないかと、小林氏は言う。
1.5万年前、ちょうど氷河期の終盤に、縄文文明は日本列島という『世界の辺境』ともいえる場所で花開いた。辺境とはいいながら、 世界に先駆けて弓矢を使用し、犬を飼い、そして土器を発明した。単に粘土を固めただけではなく、 火を使って焼成するということはまぎれもなく「化学」の誕生も意味した。 さらに、縄文人たちは定住化し、都市計画のもとに、 合理的なムラを築いた。
それに遅れること5000年後、西アジアで新石器革命が起こり、農耕がはじまる。これによって集住化が進み、経済社会が生まれ、 貧富の差が生まれる。そして、自然は共生するものではなく、収奪と改変の対象となっていく。
西アジアに起こった本格的な農耕が東に波及してきても、縄文社会は紀元前1000年くらいまで、以前と変わらない採集・ 狩猟主体の生活を営んでいた。
それは縄文人たちに農耕を営む技術力や知識がなかったからではなく、彼からが農耕生活ではなく採集・ 狩猟生活を自分たちの意志で選んだからだという。後の弥生時代と比べても、それを凌駕する巨大集落を築き、 外洋へも漕ぎ出せる船を縄文人たちは持っていたが、あえて、外来の文化である農耕は選択しなかった。
それは、縄文人たちの文化・文明が、農耕文明のようにモノに価値を置くのではなく、精神性に価値を置いていたからだという。
縄文文化の特徴である火炎土器は、実用性よりもデザイン性が重視された。また、 大湯のストーンサークルに代表されるような大規模環状列石や三内丸山に見られる巨木のランドマークや大規模な祭祀広場……それらは、 縄文人たちが豊穣な世界観、イメージを持っていたを表している。
縄文文化では、数百種の植物を分類していたと考えられるという。それは、縄文文化を今に残しているアイヌ文化から類推されるもので、 ぼくも以前『チキサニ』という小説で書いたが、アイヌが狩猟のさいに矢毒として用いるトリカブトは、 今の分類学では単にトリカブト一種類だが、アイヌはそれを何種類もに細分していた。
多様な自然と向き合うことで、自然に対する畏怖の感覚が生まれ、社会も多様で柔軟性があった。ところが、農耕民の社会は、 植物を有用なものだけ篩い分け、集約的に栽培した。農耕社会では、自分たちにとって有用なものだけが価値あるもので、 他のものには価値が見いだされない。自然は、畏怖するものではなく、征服される対象となっていく。
「縄文は、弥生に征服されたのでしょうか?」
最後の質疑応答で、女性が質問した。
「征服というよりも、混血していって、縄文の血が薄くなっていったというのが真実だと思います」
と、小林氏は答えた。
大陸から朝鮮半島を経由してやってきた弥生人たちは、日本列島土着の縄文人たちよりも背が高く、カッコ良かった。そのため、 縄文の女性たちは、この外来のカッコいい弥生人たちのほうに魅かれ、急速に混血が進んでいったのだろう、と。
コメント