時々、自分の居場所が定まらず、妙な疎外感に囚われるときがある。一人きりでいるときはいいのだが、だれかと一緒にいて、 あるいは大勢でいて、自分は場違いだと感じてしまう。
もともと、人付き合いは苦手なほうで、だから、自然の中に一人で身を置くのが好きで、若い頃は頑なに単独行を続けていた。
長じてからは、やはり自分独自のテーマを見出して、それに打ち込むことで、人と居ることの疎外感から逃れようとしてきた。
こういう感覚というのは、人恋しさの裏返しなのかもしれない。
じつは、それが自分でもわかっているからこそ、疎外感を感じてしまう自分の弱さが許せなくなってしまう。
今、これを書いているのは、六本木の高台にあるホールだが、まだ午前中の浅い時間のためらんどうで、とても落ち着く。 東面に大きくとられた窓からは、遠く筑波山のほうから、東京湾、横浜方面まで一望できる。 景色のほぼすべてを埋め尽くすビル群の中で人がひしめき合っていて、じつは、 ぼくのような疎外感を感じている人が大部分なのではないだろうかと、ふと思う。
現代人の心の中に巣食う歪んだ個人主義がいけないのだろうか? 都市化の中で、人間関係も人工的になり、 どう人と繋がっていけばいいのかわからなくなっているのが、疎外感の原因なのだろうか?
先週末、白馬でスノーシューを楽しんだ。ちょうど、この冬いちばんの寒波が訪れていて、 あっという間にトレースを隠してしまう吹雪の中で、雪まみれになって遊んだ。
里山の雪原に分け入って、鬼ぐるみの落葉痕がカモシカの顔にそっくりなことに笑い転げ、キハダの黄色い繊維を口に含んで、 その苦味に顔をしかめ、雪の中から細い枝を飛び出させたクロモジの清涼な香りを嗅いだ。
翌日は宿の近くの木に登り、雪原を駆け回った。
だけど、どこか楽しめきれない自分がいた……。
宿は雪下ろしに忙しく、今回会いたかった白馬の友人も、集落の雪下ろしがあって、顔を合わせることができなかった。だけど、 自分たちが対面する自然のことを話題にし、助け合っていく様子は、ぼくが抱く疎外感とは無縁のような気がした。
もう、あまり顔を合わせることができなくなってしまった息子が、八ヶ岳の自然教育プログラムに参加したという話を聞いた。 「雪を掬って、皿に盛って、それにあずきをかけて食べたんだ」と、彼の母親が得意げに言う。
雪を掬って食べるなんて、多少ともアウトドアの経験があるものなら、滅多にしない。それをカキ氷のように食べるなんて論外だ。 プログラムの中味を聞くと、経験の浅いスタッフが危なっかしく運営しているようで、意見をしたくなる。しかし、息子の母親にそれを言っても、 ぼくに対する反感から、ヒステリックな反応が返ってくることがわかりきっているので、そんな言葉も飲み込んでしまう。
そこそこアウトドア経験のあるぼくが、自分の子どもに基本的な技術を伝えたり、一緒に雪の中で遊んでやることもできない。 彼の母親と価値観が決定的に違ってしまって、もう一緒に彼を育てることはできない……それを不甲斐ないとは思わないが、 自分の経験を伝えることができないのは、とても残念だ。
故郷は、都市化の波に洗われて、子ども時代を過ごした野山も、美しい遠浅の海ももうない。 自分が生まれ育った環境と同じような和気藹々とした家庭も、結局は築くことができなかった。
自分のほんとうの居場所は、いったいどこにあるのだろうか……。
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