少し前のエントリーで、自分のことを「ノマド」なんて書いたけれど、考えてみれば、そんなにカッコイイものではないなと気づいて、 後から恥ずかしくなってしまった。
つい二三日前に山頭火の代表句が思い出せなくて、wikiで調べたのだが、そこには山頭火の生い立ちも詳しく記してあった。
元は裕福な造り酒屋の倅だったが、家が没落したことや、妻子を捨てて出奔したことは知っていたが、wikiには、山頭火が 「やるせない生涯」を送ることになった原因とも思える記述があった。
山頭火の母親は、彼が幼い時に自殺した。そして、自分は大学生のときに神経衰弱を患い中退。その後、造り酒屋だった実家が破産し、 父と弟も自殺してしまう。
山頭火はいったん妻の郷里の熊本で再出発を図ろうとするものの失敗し、妻子を捨てて東京へ。その東京で、関東大震災に焼け出され、 再び妻の元へ。
その後、また神経衰弱に陥ったところを熊本の寺の住職に救われて寺男となり、漂泊の旅に……そして、最後は松山で客死する。
山頭火の句には、もともと強く魅かれるものがあったが、そんな生涯を知ると、生き方が下手で、 なんとか這い上がろうと努力はするものの、結局、自分の弱さに負けてしまう姿が、自分にもぴったり当てはまるようで、「同類」 としての匂いを感じ取っていたのかもしれないと思わされた。
妙に魅かれる人物がもう一人いる。それは、円空。
学生時代、一人で日本一周のツーリングをしているときに、たまたま円空仏に出会い、衝撃を受けた。いろいろな仏像があるが、 円空仏ほどシンプルなものはないだろう。多くが、生木に鉈の一刀彫りで、大胆に傷をつけたようなものだが、ぼくは、円空仏には、 他の仏にはない強烈な魂が宿っているように見えた。
その後、国内を旅していて、「円空」の名を見つけると、立ち寄って、仏と対面せずにいられなくなった。
自分がどうして円空仏に魅かれるのか? それも、やはり仏に刻まれた円空という人の孤独や苦悩、それとの格闘が、 自分が抱えているものと同類だったからではないかと、今になって思う。
ノマドというのは、自分の意志で孤独を求め、孤高であるがゆえの自由を求める人間だろう。ぼくは、そんな高級な人間ではない。 孤高を求めはするものの、孤独であることの寂しさには耐えられない。いかにも中途半端な人間だ。
孤独に苛まれながらも、山頭火には「句」があった。円空は、生涯に12万体もの仏を刻み続けることで、それを昇華した。ぼくには、 いったい何があるだろう? また昔のように、ひたすら山に登ればいいのだろうか……。
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