ミシェル・ウエルベックのこの小説は、一々のディテールで吐き気を催さずにいられない。
ウエルベックは、「老い」というものが避けがたいモノであると同時に悲惨で惨めなものであると、繰り返し繰り返し、様々な観点から、
錐を根本まで突き刺すように、心の奥深くまでねじ込んでくる。
とくに、五月革命以降のカウンターカルチャーからポストモダンへの流れを心底憎んでいるかのように、
その現実の主人公たちをリアルにモデライズして責め立て、蔑み、否定していく。
まるで、この世代に対して深い私怨があるかのように、常に悲劇と悲惨を暗示させながらストーリーを進めていくその姿が、
作者自身の悲惨を物語るようで痛ましい。
現代フランスの思想家や文学者は、自らが深い煩悶の中で喘ぎ、そこから苦し紛れに構造主義やポストモダンを生み出して、
権威や常識をデコンストラクションするのと同時に自らをもデコンストラクションしてしまっているかのようだが、
そんな自爆世代にさらに追い打ちをかけるようなこの小説の意図は、ぬぐい去れない私怨に発しているとしか思えない。
死者に鞭打ち、もはや反省しても遅く、
失った人生を取り戻せないことに気づいて絶望しているニューエイジ世代を確実に地獄に落とすために文章を連ねているようだ。
巧妙なのは、端々に示唆的なフレーズを盛り込んで、これが徹底したアンチテーゼの小説ではなく、思想的に何かを語ろうと見せかけて、
読者の興味を引きずっていくところ。
どこかに救いが現れるのかもしれない……あるいは「救い」はなくとも、アイロニーとシニシズムを徹底して突き詰めていくことで、
「向こう側」に突き抜けて、ある種の達観をもたらせてくれるのかもしれないと、ページを捲ることを止めさせない。
しかし、最後の最後に至るまで、救いなどどこにもない。
積み上げたシニシズムをなんとか昇華して、生きることの意味をこじつけようとしているかのように見えるエピローグは、
量子論をポストモダンのスープにぶち込んで分子生物学で味付けしたような意味不明のドグマ。
結局、人間存在は、下手な智慧をもってしまったがために不幸になった「呪われた猿」だと結論しているようだ。
あまりにも読後感が悪かったので、一日、口直しに「新実存主義」に浸ってしまった。
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