もともとぼくは、物事を順序立てて計画したり、それに基づいてきちんと実行したり、 さらには整然と記録を取っておくということとは無縁の、至って感覚本位型の人間だった。
計画性が無く、行き当たりばったりな旅をして、その間の記録もたいして残さない。旅やプロジェクトが終われば、 それは過ぎたこととして、ことさら思い返したりはしなかった。
ところが、何の因果か、自分の体験を『記録』として人様に伝えることが仕事となり、 後の表現のために体験を記録することがなかば必要条件となった。
初めの頃、それは苦痛だった。
「とにかく先へ進みたい、今まで見たことも聞いたこともなかった未知なるモノに対峙したい……」
そんなことばかり考えていて、記録し、それを整理して発表するということが、自分にとっては足踏みのような気がしてならなかった。
ところが、ようやく最近になって、記録すること、そしてそれを反芻することが自分にとっての楽しみであり、 とても重要であると感じられるようになってきた。
例えば、どこかに旅をしたとする。
「行ってきました。楽しかった」
で終わってしまえば、それは消費でしかない。贅沢な蕩尽でしかない。それは自分のストレス発散や気分転換にはなろうが、
旅したその場所と自分との関係という意味では、ただ、そこから『戴いた』ということにしかならない。
旅の間、ぼくは自分の記憶に多くのことを残そうと努力する。そして、その場で記録できることは記録し、さらに旅から戻って、 記録をし直し、それを検証し、反芻する。
そうすることで、ぼくは、自分の旅の意味をそこに再発見し、旅した土地と自分との関わりや共に旅をした仲間との関係に新たな意味、 深い意味を見いだす。そこには、旅の現場では気づかなかった発見もたくさんあり、さらに、 次にそこを訪れたときに求めたいテーマもはっきりする。
どんな体験でも、それがその場限りの情動的なレベルで終わってしまっては、あまりにも皮相で、 自らにその体験をもたらしてくれた環境や人に対して申し訳ない。それをしっかりと記録し、反芻することで、 それは新たな体験や関係をそこから導き出してくれる。
もしかしたら、そんな時間が持てるということは、とても贅沢なことなのかもしれない。そう考えれば、ぼくは、 始めた当初は苦痛だった、表現者という仕事は、とても幸せな仕事なのではないかと思えるようになった。
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