今週、春一番が吹いて、その翌日には冬への揺り戻しがあった。
春一番が吹き荒れた当日、ぼくは浜名湖のほとりにいて、白波の飛沫を浴びていた。夕方、一発の砲撃のような春雷が鳴り、 季節が一瞬にして変わった。
風は南東から北西に移り、一時的に冬型の気圧配置になったが、それはバタフライ式の扉を開けて外に出たら、 反動で扉が一瞬反対側に開くようなもので、一瞬の揺り戻しでしかない。
曖昧な冬から、春へ。東京では、今日になっても初雪は降らず、ついに雪を見ないまま、冬を実感できないまま、 季節は春へと切り替わってしまった。
一方、気まぐれな春の嵐は北では猛吹雪をもたらして山スキーのツアーを雪崩の生け贄にした。長野県内でも遭難が相次ぎ、 ついに山での犠牲者が史上最悪を記録した。
明確な四季が無くなり、季節と季節の狭間が入り乱れて、時に気まぐれな、そして甚大な天災をもたらす。
かつては、自然の中にあって、風を感じ、雲を眺めて、自然と会話することができた。自然は、穏やかに四季の変化を見せて、 それぞれの季節には移ろいのメッセージを明確に伝えてきた。子供たちも、季節ごとに、虫を追ったり、花や草を摘んだり、木の実をとったり、 雪だるまを作ったり、季節とともに遊び、自然と交感し、季節の移ろいに合わせて変化し、成長した。
盤石で安定していたと思っていた自然が、不安定で気まぐれなものになり、ぼくたちを慈しんでいてくれたはずなのに、 思いもかけない仕打ちを与えてくる。エコやサステイナブルをいくら唱えても、ぼくたちはますます自然から乖離していってしまう。
物体は大きくなればなるほど、重くなればなるほど、動かし始めるのは大変だが、それを一度動かしてしまうと慣性が働いて、 今度は止めるのが難しくなる。地球環境という途方もなく巨大で、安定だと思っていたものを動かしはじめてしまったぼくたちは、 それを止めることができるのだろうか?
一つ、はっきりしているのは、たとえそれが止められても、もとには戻せないということ……。
自然とともにあった懐かしい時代や明確な四季を失ってしまったという喪失感は、とても大きく、これ以上、 失ってはいけないと痛切に感じる。
でも、ふと思う。
地球が、我々人類という「種」を失ったとき、ガイアの魂は、どれほどの喪失感を持つのだろうかと……。四季を失い、 巨大な天災をもたらす地球は、異常に繁殖しすぎた「人類」というウイルスに対して、正常な免疫反応を示し始めただけなのではないかと……。
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