今読んでいる『阿片王』(佐野眞一)の中に、主人公の里見甫が言ったとされる言葉。 電車の中でこの言葉に突き当たり、ちょうど春のフレッシュマンシーズンということもあって、いろいろな思いが浮かんできた。
ぼく自身は正式に就職したことはなく、大学を卒業してから20数年、ずっとフリーランスとしてやってきた。 自分が組織の一員となったことはないけれど、逆に様々な組織と付き合ってきたので、組織にもいろいろな個性があることや、 組織の中の人間関係の複雑さも身に染みて感じてきた。
ほとんどの組織にとって人間は「消費財」だから、里見の言葉はそのまま当てはまる。そして、 ぼくたちのようなフリーランサーは「財」ですらなく単なる「道具」と見られて、使い捨てられてきた。「財」 ならば使い物にならなくても、もったいないから、あるいは捨てるのが面倒だからそのまま留め置かれたりもするが、 道具が使い物にならなければすぐに見捨てられる。そこに緊張感があって、スキルを高める努力もしてきたわけだが、最近は、 状況がだいぶ変わってきた。
今までの世界とは価値観もシステムも根本的に変わりつつある世の動きに対応して、 なんとか脱皮を図ろうとする企業は、今までとは逆に、システムに取り込まれていなかったからこそ、 機敏な動きを身につけたぼくたちのようなフリーランサーに価値観を見いだし、対等な立場でコラボレートしようとし始めた。 もちろん、それはモノのわかった担当者とぼくたちとの個人同士の信頼関係がベースだが、単にそれだけではなく、 そのバックとなっている会社にもしっかりコンセンサスができあがっている。
一方、旧態依然とした価値観にしがみついて対応できない組織も、まだまだたくさんある。 そういったアンシャンレジウムにある企業は、いまだにフリーランサーや外部のプロダクションに対して「使い捨て」の「下請け」 という意識を拭えない。
ネット社会は、どんな大企業といえども、時として個人の力に凌駕されてしまうことが起こりうる。 斬新なアイデアやスピーディで有機的なネットワークは、フットワークの鈍い企業には生まれない。また、ネガティヴな側面でも、 あの日本のインターネット初期の頃に巻き起こった「東芝事件」のように、 一個人の発信によって大企業が傾く寸前に追い込まれることだってある。
フリーランサーが下請け仕事に甘んじて、企業の顔色を伺っていた時代は遠に過ぎた。……といっても、 組織故の非情さは未だにどんな組織でも変わらないことも自覚しているけれど。
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