新年ともなれば、やはりこの一年の抱負でも述べるべきなのかもしれないが、この年末年始はほとんど部屋に閉じこもりきりで初詣にも行かず、おせちも食べず、ひたすら怠惰を貪っていただけで過ぎてしまった身としては、とてもまともなことを言えそうにはない。
今年は人生のターニングポイントともなりそうな仕事がいろいろとひかえているので、その大波に備えて力を貯めるといった言いわけを自分にしつつ、単に天邪鬼に世間の当たり前の正月の過ごし方に背を向けて過ごした一週間は、もっぱら年末から取り組んでいる大著『風景と記憶』と向かい合って、ナチスドイツが環境保護にとても熱心で人間に対してはホロコーストを行いながらシュヴァルツバルトの植物と動物はパラノイアックに保護しただとか、神話との距離のとり方を失敗すると自然の中に神の示現を発見したような気になって、それこそがファシズムに繋がっていってしまう……だとかと考えを巡らせていた。
じつは、長年取り組んできたレイラインハンティングがテレビ番組化されることになり、その構成を考える上で、あらためて自分が「レイライン」という事象をどう捕らえようとしているのかを原点に立ち戻って見直してみるといった意味もあった。
自然に対する畏怖と、目に見える何か以上のものがそこにあるという「超自然的」感覚がフィールドに身を置くと常に付きまとっていた。そんな感覚をもたらす原因はいったい何なのか?
そんなことをずっと考え続けていてめぐり合ったのが「レイライン」という概念だった。
今よりももっと人が感覚的で本能的であった太古、どうやって、そして何の目的で人々は「聖地」を特定し、それを意味ある配置にし、そして聖地どうしのネットワークを築いたのか? ぼくとしては宗教やニューエイジとは異なり、そこに「ご利益」や「自己啓発」に結びつく託宣を探すのではなく、あくまでもそんなものを築いた「人」の意識に迫っていきたいと思ってやってきた。
そんなスタンスを上手に説明してくれる一文が『風景と記憶』の中にあった。
「われわれの文化のような度しがたく「魔法からさめている」文化の明け暮れに慣れきって、もはや神話をまともにとらえることを忘れるならば、われわれが皆で共有する世界に対する理解は貧しいものにならざるをえない。そして、それはまた、神話というものを、それからまったく批判的距離をとろうとしない人々、神話を歴史的現象としてではなく探求しがたい永遠の神秘だと思い込む人々だけのものとしてしまう。偉大なるタルムード研究家ソール・リーバーマンが『ユダヤ神秘主義、その主潮流』という本にまとまるはずのゲルショム・ショーレムのカバラに関する講義を紹介して述べた通りなのだ。「ノンセンスはどこまでいってもノンセンスである。しかしノンセンスを研究することは科学だ」。
いちおう、そんな言葉を借りて、ぼくの今年の抱負としておこう。
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