前回、「お盆も過ぎて、朝晩はすっかり過ごしやすくなった……」なんて書いたが、なんのなんのしっかりと残暑はやってきて、今年もまたその真っ只中にオートバイで走り回る羽目になった。
今月に入って最初の週は松本から高山、飛騨古川、郡上八幡と中部の小京都を巡り、そのまま能登へと向かった。
平湯のあたりなら少しは涼しいかと期待したが、平地の残暑がアメーバのように這い登り、この高原にも陽炎が揺らめいて、自慢の温泉よりは川に飛び込みたくなった。
丹生川の千光寺では、せっかく円空仏との再会を楽しみにしていたのに、蝉時雨の参道をたどるだけで朦朧としてしまい、さらには仏さんそっちのけの騒々しい老人クラブの団体と一緒になってしまって、じっくりのんびり一つ一つの仏さんと対話するどころではなかった(もっともそのおかげで、今度は人の訪れない冬に再訪しようと固く心に決められたが)。
郡上八幡の町もけだるい熱帯のように風景が熱波で揺らぎ、いつも見かける町の中心を貫く清流に飛び込む子供たちの姿も皆無だった。
能登へ抜け、まずは西海岸の千里浜を走る。
名物の浜辺小屋の一つでハマグリと白貝をつつきながらコーラなぞ飲んでいると、「この暑さじゃオートバイでも気持ちよくないでしょ」と、おかみさんに労われる。
こちらがバイク乗りだと思うと「夏はオートバイで走るには最高だね」なんて決まり文句を吐かれるのが相場だが、そんな言葉がいかにもうそ臭く思えるほど能登の残暑は厳しかった。
輪島では夜に御陣乗太古の実演が道の駅であるというので、あの勇壮な太鼓を聞けば暑気払いになるかと思い、宿の下駄を突っ掛けて会場の道の駅(なんと鉄道が廃線になって旧輪島駅がそのまま道の駅になっていた)までカランコロンと出かけていった。
20数年前に初めて能登を訪れたとき、観光会館の舞台で演奏された御陣乗太鼓の迫力に圧倒された。
戦国時代に輪島の町を陥れようとしていた軍勢が、磯で髪を振り乱して雷のように太鼓を叩く「鬼」の姿を見つけ、尻尾を巻いて逃げ帰ったという逸話が残る勇壮な太古で、久しぶりにその迫力を期待して行ったのだが、今の演奏は妙に観光ズレして手際よく演奏が進められていて、昔の素朴さ、粗野なところが独特の迫力がすっかりスポイルされてしまっていた。
広く区画整理された商店街に向かって開けた舞台も、本来岸壁が取り囲む狭い入り江で岩の反響が迫力を増幅させていたはずのものを逆に拡散してしまい、気抜けしたビールのように味けなくてがっがりした。演奏を最後まで聴く気力もなくして、夜も更けてきたというのに茹だるような暑さの中を宿まで帰ると、久しぶりに履いた下駄のために痛い鼻緒ずれができてしまった。
この旅でほのぼのと印象に残ったのは、能登の突端近くの木の浦で味わった本格コーヒーの風味だった。
能登半島の突端に近いまさに最果ての小さな入り江に下りていくと、朝靄に混じってコーヒーを焙煎する煙が漂ってきて、磯の香りと絶妙に交じり合う。その香りに引き寄せられるように、小さな漁師小屋に近づくと、煙突から紫の煙が立ち上っている。
大きいけれど威圧感はなくて愛らしいレトリバーが戸口で迎えてくれて、その小屋の中に入ると、奥では小柄な若い女性が一心不乱に焙煎機と向き合っている。
手前の試飲できるスペースには溌剌とした若者がいて、彼が応対してくれた。いくつかあるコーヒーのうちからスタンダードの「舟小屋ブレンド」を選ぶと、若者がそのオーダーを奥の女性に伝え、一時、焙煎の手を休めてドリップしてくれた。
そのコーヒーは、わざわざその一口を味わうためにここまでやってきてもいいくらい旨かった。
能登から戻ると、今度は大町から白馬、小谷と北信を巡り、妙高に抜けた。
台風一過の空に浮かび上がる北アルプスの雄姿を期待していたのだが、台風は秋空を運んでくる代わりに湿った南海の空気を引きずってきていて、残念ながら北アルプスはどんよりした雲に飲み込まれていた。
空気も北信らしい爽やかさがなく、じっとりとしている。
ぼくは、高校3年の夏休みに、一ヶ月この場所……白馬村の神城……に滞在した。
海沿いの町に生まれ育ったぼくには、目の前に迫る3000mクラスの山々の風景と心地よい高原の風にすっかり魅了された。そして、ここはぼくにとって第二の故郷のような場所となったが、その後、いつ訪れても清清しい空気に包まれて、あの輝いていた高校時代の夏を思い出させてくれた。
だが、蒸し暑い残暑が風景の色合いを変えてしまった今年の白馬は、ぼくの思い出に残る土地の記憶とは似ても似つかず、まるで土地から拒絶されたように感じて妙に寂しかった。
小谷から雨飾山の麓まで登っていくと、ようやく空気は涼しくなって秋の気配が感じられた。
山の神はぼくの落胆を少しは汲み取ってくれたのか、翌日の早朝には一瞬の間だけだが雲を晴らして雨飾山の全貌を見せてくれた。
この旅は来年のツーリングマップル中部北陸の表紙撮影が主目的だったが、雨飾山が姿を見せてくれたことでなんとかそれを果たすことができた。
北信の旅から戻り、中一日置いて、今度は若狭へと向かった。
北陸はあいかわらずのフェーン現象で、前回よりもさらに残暑が厳しかった。
今回は若狭の定宿「PAMCO湖上館」でRyuさんと落ち合った。Ryu.Takahashiさんはニュージーランドのシーカヤックガイド国家資格を保持している唯一の日本人で、普段はエイベルタズマンエリアでガイドをされている。今年は、夏から秋にかけて日本に滞在して、日本のプロガイドにレスキューやガイディングを指導するワークショップを開催している。
ちょうど、前日まで若狭でプロガイドワークショップを開き、その後、PAMCOで待ち合わせしたというわけだ。
じつは飛び切りきれいな若狭の海でマンツーマンにシーカヤックの御指導を願おうといった思惑があったのだが、真冬のNZから炎暑の日本にやってきてハードにスケジュールをこなしていたRyuさんは、さすがに海へ漕ぎ出す元気が残っていなかった。
そこで、急遽思惑を捨てて、若狭の自然と文化を堪能することに。
まずはPAMCOの御主人、田辺一彦さんに舟を出してもらって宿の目の前に広がる水月湖に。
三方五湖の一つ水月湖は周囲に人造物が少なく、PAMCOからは対岸には人家も街頭も一つも見えない。
夜、酒を片手に宿のテラスに佇み、水盆に映る月を眺めていると、 王翰「涼州詞」 の一節なぞがふと口をついて出る。
葡萄の美酒、夜光の杯
飲まんと欲すれば、琵琶馬上に催す
酔うて沙上に臥すとも、君笑う莫れ
古来征戦幾人か回る
……その水月湖は昼間も静かに佇み、田辺さんの操る舟が引く航跡だけが鏡のような湖面に細く伸びていく。
三方五湖は文字通り五つの湖が繋がり、さらに海とも結ばれている。
水月湖から漕ぎ出した舟は海と繋がる湖と結ばれる細い水路を通って行く。水路を抜けると急に磯の香りが強くなる。心なしか湖面の温度も上がったように感じる。
田辺さんは、要所要所で舟を止め、湖に伝わる逸話や冬に訪れる大鷲の話など披露してくれる。
この三方には宇波西神社という古い社がある。
ここには湖から引き上げられた王の面が奉納され、その面にまつわる物語を舞う「王の舞」という能が伝えられている。原始の姿をとどめる水月湖の湖上で、満月の晩に、この「王の舞」を奉納する……そんなことができたら、どんな幻想が掻き立てられるだろう。
そこは田辺家が所有する梅畑となった斜面で、今は遊休となったこの畑を使って、田辺さんは、子供たち(時には大人)が無垢な心で自然と親しむことのできる「あそぼーやの森」を構想している。
ここがどんな場所になるのか、じつはぼくもアイデアを出して構想に参加している一員なので、実現の運びに詳しく紹介してみたいと思う。
PAMCOでは、この数年続けてきた常神半島と水月湖をフィールドとしたシーカヤックツアーを今年は装備などを拡充し、また専従のスタッフを置いて「あそぼーや」事業として本格稼動した。
そのツアーの楽しさが口コミやWEBを通じて広がり、この夏は600人以上ものお客さんを若狭の海と湖に案内したという。既成の「京都の奥座敷」という売りだけでは到底足を運ばなかったはずの「新規」のお客さんを集めてしまう田辺さんの努力と、そして若狭の自然の魅力は、今、日本の各地で暗中模索している地域ツーリズム運動の一つの光明といえるかもしれない。
午前中、田辺さんの案内で湖面巡りをして、午後からはぼくがこの若狭の地でライフワークとしている不老不死伝説を巡る足跡ツアーとなった。
参加者は件の Ryuさんと滋賀県は木之本の造り酒屋の御曹司富田氏。
この若狭の土地で交錯する徐福、八百比丘尼、空海という「不老不死」を共通点とする三者の足跡と、さらに「お水送り」といった不思議な行事や常神半島や遠敷(おにゅう)に配された曰くある神社など、掘り下げれば掘り下げるほど謎と興味が湧き出してくるミステリーがある。
それをぼくはレイラインハンティングというサイトで探求しているのだが、その成果の一部をRyuさんや富田さんにも体験してもらおうという趣向だ。
不老不死伝説の詳細はレイラインハンティングでも紹介しているし、近々学研のとある雑誌の連載のテーマにもする予定なので、そちらを参照していただければわかりやすいと思う。
今回二人を案内して面白かったのは、プロガイドワークショップですでに若狭の海の魅力を痛いほど感じていたRyuさんが、今度は陸上で若狭の秘められた魅力に感動して「若狭には世界に誇れる観光資源が眠っているよ!」と目を輝かせていたことと、この若狭から至近の琵琶湖の辺に生まれ育った富田氏が不老不死伝説のコアとも言える遠敷の土地にまつわる話を思い出してしてくれたことだった。
ぼく自身、若狭の自然と歴史に秘められた謎に魅了されて、この土地に通い続けているのだが、今回の若狭訪問によって、ますますこの土地との絆が深まった気がした。
若狭から戻ると、今度は野暮用で茨城の実家に戻った。野暮用というのは、一つはお盆の帰省の際に故障してそのまま預けっぱなしにしていた車を引き取ること。
そしてもう一つは、母校の高校で「職業講話」の講師を務めることだった。
しかし、大学を出てからずっとフリーランスでやってきたぼくに、高校一年生が将来就きたい職業のイメージを固めるために講師を勤めて欲しいというのもまた乱暴な話だ。
そもそも自分の職業……というより仕事の中味を説明するだけだって骨が折れるし、定職に就かずにその時々の興味に従ってテーマを決めてやってきたぼくの手法……生き方といってもいいかもしれないが……は、まるで流行のニートを勧めるようなものだろうに。
ぼくが在学していた当時は文武両道を歌いながらもだいぶ武のほうが勝っていたバンカラな校風で鳴らした母校も今は品の良い進学校となっている。
ぼくの頃の高校一年生なんて、まだ言葉もろくに話せない洟垂れ小僧がいいところだったのに、今の子供たちは礼儀正しく、言葉遣いも大人びていて、自分の昔を思い返すと教壇の上にいるのが恥ずかしいほどだった。
じつはこの講話は、昨年も講師を頼まれて引き受けたのだが、さすがに「定職に就かなくたって人生は面白いんだよ」なんて焚きつける不良講師には、今年はお鉢は回ってこないと高を括っていた。
なんで今年も呼ばれたのかと校長先生に聞いてみると、昨年の評判がすこぶる良かったとのこと……何が評価されるか、ほんとにこの世はわからない。
そんなこんなであちこち出歩き、ようやく腰を落ち着けたと思ったら、ひどい風邪を引きこんでしまった。
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