ガラスのコップをテーブルに置く音、リキュールの金属キャップを捻る音、錠剤をガラスビンから振り出す音、ビデオカメラにテープを挿入する音……普段、人が無意識にバックグラウンドノイズとして感覚から締め出している音が、クローズアップされる。
雑踏にカメラが向けられると道行く人のそれぞれの靴音や衣擦れの音が、さらに車や電車の騒音も分解増幅され、それまで一塊だったノイズが、ふいに一つ一つの音に意味があることに気づかされる。
音に含まれた「意味」を感じた途端、スクリーンに映し出された映像は、単に平面の「記録」ではなく立体感を持って迫ってくる。
普段の会話ではありえない息苦しいほど間近にある人物。
普通、人は他人の言葉を聞くときに、吐き出される息が形を成した意味のある言葉だけを無造作に拾う。しかし、間近にある主人公の言葉には、吐き出される言葉とともに、吸い込む息にも言葉がこもっていることを自覚させられる。
どこにでもある、なんでもない、ある種陳腐ともいえる日常。切り詰められて情状言語以上の意味を持たない台詞。そんなものにどこまでも肉薄していくことで、ふと気づくと、日常の向こう側に突き抜けている。
鏡に映し出された自分の顔。その顔に近づいて見つめ続けるうちに、鏡の向こうにいる人間は自分ではない「何か」に感じられてくる。
鏡が古代から常に怖れの対象であったのは、見慣れた当たり前のものを映し出しているはずなのに、気がつけば向こう側に異世界を出現させ、そこに人を引き込んでしまうからだろう。
鏡に映し出された世界に見入っているうちに、足元にあったはずの磐石な世界の底が抜け落ちて、どことも知れない変性の世界に漂い出してしまう。それと同じことが「鏡心」のスクリーンを見つめているうちに起こる。
石井聰亙は、高画質のハンディカメラを使い、自らが「鏡心」を体現したデバイスとなることで、誰もが生きてそれが当たり前だと思っている日常の向こう側へと切り込んでいく。
システム化された大作映画の手法ではなく、撮り手の息遣いもそのまま感じられる手法だからこそ見ているこちらの気持ちを鷲づかみにするようなリアリティがある。
映画を「観て楽しむ」のではなく、映画を「体験して感じる」。
「鏡心」はそんな種類の映画だ。
そして、「鏡心」が体験させてくれる世界は、個々の人間の体験や意識の違いによって様々に異なるだろう。
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