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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.310
2025年5月15日号
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◆今回の内容
○上賀茂神社と賀茂氏の謎
・太古にさかのぼる歴史
・社殿配置の意図
・陰陽を司る氏族
・八咫烏の継承者たち
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上賀茂神社と賀茂氏の謎
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先週は、久しぶりに上賀茂神社を訪問しました。ここに初めて訪れたのは、かれこれ30年近く前、レイラインを辿る旅をはじめたばかりの頃でした。それまでも、京都の「結界」は知られていましたが、それをレイライン、つまり寺社のネットワークという視点でとらえると何がわかるか、京都のフィールドワークの起点として選んだのが上賀茂神社でした。
上賀茂神社は桓武天皇による平安京造営の折に、真っ先に社殿が整備された神社で、元々賀茂氏が奉斎していた山城の土地神を新都の守護神としたものでした。そうした歴史からみて、上賀茂神社が平安京に張り巡らされた結界=レイラインの重要なポイントになっているはずだと考えたのです。
実際に訪ねて、平安京における上賀茂神社の位置だけでなく、その境内の構造をGPSでチェックすると、まさにここを要として平安京が形作られていることがはっきりしました。さらに、桓武がもっとも恐れ、前都である長岡京を捨てる原因ともなった早良親王の怨霊を結界によって封じ込める構図も明確になったのです。その具体的な配置と構造は、拙著『レイラインハンター』の「第六章 京都・封じ込められた怨霊」や、この講座で京都を取り上げた際に、詳しく紹介しました。
その後も、大阪のテレビ番組や雑誌の取材などで何度か訪れました。上賀茂神社は結界やレイラインを意図した構造がはっきりしているうえに、創建にまつわる史実がそれに符合しているので、結界やレイラインを研究したり説明するうえで、とてもわかりやすい指標となるのです。
私がサイトで上賀茂神社を取り上げたとき、それを見た京都出身の友人が、「上賀茂神社では結婚式もあげたし、よく行っていたけど、参道とか境内の建物の配置が他の神社とは違って不思議に思っていたんだよね。だけど、この記事を読んで、なるほど京都の結界の要だからあんな構造になっていたんだということがわかったよ」と、とても納得していました。
地元の人でも、場所、あるいはその構造が不思議に感じられていたが、それがなぜか明確になっていなかったのが面白いところであり、それが地図でアライメントを見れば明白になるのがレイラインハンティングの面白いところといえます。
今回の訪問は、結界やレイラインについての話ではなかったのですが、葵祭(賀茂祭)を目前に控えた忙しい時期にも関わらず、高井宮司直々にお話くださり、境内を案内していただきました。
1000年以上前の創建当時の面影をそのまま残し、さらには、それ以前の遥か太古まで遡る自然崇拝の息吹が感じられる境内を歩き、本殿を拝しながら、様々な秘話を伺っていると、上賀茂神社には、結界やレイラインだけでなく、神道の根源からさらにもっとプリミティヴな日本の信仰の基層にまで届くものがあると感じさせられるのでした。
今回は、そんなことから、結界やレイラインではなく、上賀茂神社という社の本質とは何なのかを奉斎者である賀茂氏という氏族の成り立ちを含めて考えてみようと思います。
●太古にさかのぼる歴史●
上賀茂神社の創祀に関する最も古い伝承は、『山城国風土記』の逸文に見られます。
「神武東征の際に八咫烏として先導した賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が、大和の葛城山を経て山城国の岡田の賀茂に至り、さらに賀茂川を遡って現在の久我の地に鎮まった。賀茂建角身命は丹波の神野の神、伊可古夜日売(いかこやひめ)を娶り、玉依日子(たまよりひこ)と玉依日売(たまよりひめ)の二柱の子をもうけた。
ある時、妹の玉依日売が石川の瀬見の小川(現在の賀茂川の一部とされる)で遊んでいると、川上から丹塗矢が流れてきた。これを持ち帰って床の辺に置いたところ、玉依日売は懐妊し、男子を産んだ 。
この御子神が成人した際、外祖父である賀茂建角身命が八百万の神々を招いて宴を開き、『汝の父と思う神にこの酒を飲ませよ』と命じた。すると御子神は天に向かって杯を捧げ、屋根を突き破って昇天した。これにより、御子神は外祖父の名を取りて賀茂別雷命と名付けられ、丹塗矢の正体は乙訓郡に坐す火雷神(ほのいかづちのかみ)であった」。
丹塗矢による処女懐胎というモチーフは、大和の三輪山に伝わる神話と同じです。大物主が美しい勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)を見初めて、姫が厠に入った時に丹塗矢になって溝から流れ下り、姫のほとを突いて、生まれたのが媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)で、これが神武天皇の后になるという話です。同様のモチーフの神話は、世界各地にも見られる非常に古いものであり、地域の自然崇拝と氏族の祖先崇拝が統合されたものと考えられます。
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