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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.286
2024年5月16日号
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◆今回の内容
○道と聖地
・熊野参詣道と再生物語
・伊勢参りと四国遍路
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道と聖地
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前回は、中世以前には神仏の領域とみなされる仕事に携わる者と位置づけられ、天皇直轄もしくは天皇に近い関係にあった人たちが、近世以降に賤民とされた歴史を辿りました。封建制が確立し、身分制や戸籍が整備されたことで、そこからはみ出す存在であった彼らは、社会のアウトサイダーとされてしまったのです。
もともと、交易や金融に関わる商人、鋳物師や木地師などの職人、そして能楽師や傀儡、白拍子といった芸能民などは「神仏の奴婢」と称し、一種の自由民として税や賦役を免除され、また自由に旅をする権利を与えられていました。
彼らは、街道を行く際には黄衣を纏い、山伏などは普通の人と異なる髪形をして、柿色の衣を着用していました。また特別な形の杖をついて歩いたり、自由民とわかる持ち物を携えていました。彼ら自由民にとっては、街道も聖地であり、またそれを一般の人たちも認めていました。だから、彼らの持ち物や、その人に手をかけたりすると、加害者は恐ろしい天罰に見舞われると信じられ、彼らが行倒れたりした場合、その亡骸ある場所は、それ自体が聖なる場所とみなされ、神仏の所領とされました。
そうした例は、近世以前のヨーロッパでも見られました。ミンストレルと呼ばれた吟遊詩人や演奏家、俳優、大道芸人、人形遣い、動物遣いといった人たちで、彼らは宮廷や教会の要請に応じて各地を巡歴する自由民でした。
ミンストレルは、竪琴やリュートなどの楽器を演奏し、英雄譚や恋愛物語を歌い上げました。また、宮廷にまつわる出来事や世相を風刺する者もいました。日本でいえば琵琶法師が該当します。人形遣いは日本の傀儡子に当たりますから、洋の東西を問わず、自由な芸能民の類型は似通っていたことがわかります。
ただし、ヨーロッパでは職人は早くから特定の都市や地域内での同業組合であるギルドを構成し、それに属する職人が地域から自由に出ることは、基本的には認めていませんでした。もっとも、石工たちは例外で、彼らが大きな建築プロジェクトに関わるために他の地域に行ったり、見習いの職人が修行のために各地のギルドを巡ることは許されていました。各地のギルドが連携しあって、ギルドとしての自由と権利を獲得し、いわゆる「フリーメーソン」のネットワークを形作っていました。
ツール・ド・フランスといえば世界最大の自転車レースですが、これはフリーメーソンの徒弟修行制度に由来する名前です。フリーメーソンに入門した石工は、徒弟、職人、親方という三段階の身分を経て技能を身につけていきました。徒弟は、現場から現場へと渡り歩き、様々な現場を経験することで職人としての腕を磨いていきます。この修業の旅が「ツール・ド・フランス」と呼ばれていたのです。
ツール・ド・フランスを無事に終えた徒弟は、「カイエンヌ」という会議で親方から秘伝を授けられ(つまりイニシエーションを受けて)、晴れて職人に任命されました。長距離の自転車レースはたくさんありますが、ツール・ド・フランスが特別視されるのは、このレースでの勝者こそが真の勝者である名誉と称号を手にするという意味があるのです。
話を自由民に戻しますが、彼らが道を辿って各地を移動することで、道もある意味、「聖なるもの」とみなされ、聖地をつなぐネットワークとして整備されてもいきました。さらに、そうした道に普通の庶民が「巡礼者」というテンポラリーな自由民として登場してきます。
●熊野参詣道と再生物語●
聖地をつなぐ道として代表的なのは巡礼路です。一般の人たちが自由な移動が制限されていた時代でも、巡礼だけは特別でした。日本でも巡礼路は様々ありますが、中でも有名なのは熊野詣と伊勢参り、それに四国八十八ヶ所でしょう。
熊野は私の大学時代の親友が熊野市の出身で、若いときから彼の実家によくお邪魔して、熊野の各所を案内してもらいました。それは、熊野古道が世界遺産に指定されるはるか前で高速も伸びていない時代で、観光客もほとんどおらず、「僻遠の地」と形容するのがぴったりでした。実際、東京から熊野まで電車でも5,6時間はゆうにかかり、車だと丸々一日を要しました。そんな時代ですから、親友が案内してくれた場所はどこも熊野らしい自然の奥深さを感じさせる、「異界」と形容するにふさわしいところでした。
そんな場所に、中世の初期には白河院が9度、鳥羽院21度、後白河院34度、後鳥羽院28度も御幸し、多くの貴族も参詣し、さらには、中世半ばになると一般の民衆にも熊野信仰が広がり、「蟻の熊野詣」と形容されるほど参詣の人波が押し寄せたとというのは、俄には信じられませんでした。
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