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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.235
2022年4月7日号
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◆今回の内容
○神託―「神」と繋がるということ
・神の声を伝える偶像
・祭祀王と現人神
・預言と神託
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神託―「神」と繋がるということ
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人はどうして願い事をするときに神仏に祈るのでしょうか? また、「当たるも八卦当たらぬも八卦」と思いながらも占いを信じたり頼ったりするのでしょうか? 有名な占い師のもとに政治家や一流企業の経営者が繁く通うといった話も昔からあります。
何をやってもうまくいかず不幸ばかりが続いたり、あるいは逆に思わぬ幸運に恵まれた時、それを「大数の法則で考えれば、それも確率理論の範疇内だ」とロジカルにとらえる人はほとんどいません。多くの人が、人智を超えた「神」のような存在が人の運命を握っているのではないかと漠然と感じるでしょう。
前々回の『右脳的信仰と左脳的信仰』の中でも取り上げたジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』では、人間が「神」と意識するものは、右脳の機能である直感的なインスピレーションのことであると断定しています。
大昔の人間はほとんど自意識というものを持たず、右脳の声が頭の中で鳴り響いていた。その右脳の声にただ従ってさえいれば、ことさら不幸を感じることもなく、苦悩や悲嘆することもなく幸せに生きることができた。
しかし、人間が言葉を獲得し、文字を発明して合理的にものを考えるようになると……言い換えれば、人間が自己の「意識」を持つようになると……論理的合理的な判断を下す左脳の働きが優勢になって、右脳の中の「ひらめき」が薄れていってしまった。それが神々の沈黙であったというわけです。
聖書では、アダムとイブが蛇にそそのかされて知恵の実を食べたことで、自意識が芽生え、それが元で楽園から追放され、不幸を味わうことになったと説かれます。この失楽園の物語は、まさにジェインズの理論のメタファのようです。
神仏にすがったり、占いを頼るというのは、太古の記憶として心の片隅に残っている沈黙してしまった神々に、なんとかして再び近づき、その声を聞きたいという欲求ともいえるかもしれません。
前々回の内容に一部重複する部分もありますが、今回は、そんな新たな観点から、神託の歴史を振り返ってみたいと思います。
●神の声を伝える偶像●
神の声が聞こえなくなってしまった人間は、なんとかその声を取り戻そうと、様々な試みを行いました。その最初のものは偶像でした。
旧約聖書には、テラフィムと呼ばれる種類の偶像が話したと記されています。「エゼキエル書」第21章21節では、バビロンの王が複数のテラフィムに向かって教えを請う様子が描かれています。
バビロンの第6代の王であるハンムラビは、「ハンムラビ法典」で有名ですが、この法典は書物として残されたものではなく、高さ2.5メートルほどの黒色の玄武岩でできた石柱に記されたものでした。この石柱は、ハンムラビ王治世の末期に、王を象った偶像の横に建てられました。
石碑の最上部には、ハンムラビがバビロンの国家神マルドゥク(メソポタミアの太陽神であるシャマシュという説もある)から裁定を告げられる場面が彫られています。マルドゥクは、メソポタミアで山の象徴とされる塚に腰かけ、その両肩からは、炎のようなオーラが立ち上っています。ハンムラビはマルドゥクよりわずかに低い位置に立ち、かしずくようにして耳を傾けています。マルドゥクは、右手に力の象徴とされる杖と輪を握り、その手でハンムラビの左肘に触れています。
この構図は、ハンムラビが完全なる神の僕であることを象徴しています。さらに、石碑の下部には「ハンムラビの言葉を聞く」と記されていて、ハンムラビがマルドゥクの代弁者であり、その言葉は神の言葉であるということが明示されています。
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