久しぶりに都心に出たので、ちょうど今開催されている友人の会社の「タロット展」を覗いてきた。そして、いちばんオーソドックスなカードを一組買った。
深夜、それをパラパラめくりながら、大部なシンボル図鑑を引っ張り出して、同じようなイメージのシンボルがないかと照らし合わせてみたり、ただ漠然とカードを眺めたりしていると、いつのまにか時間が経っている。
タロットのような古来のシンボル体系というのは、その図柄を眺めているだけで、様々なイメージが湧き上がってくる。そのイメージは、それを眺める人のセンスや経験によって様々で、何か具体的な体験のシーンが思い浮かぶというよりも、複合的な感情が折り重なった漠然としたアブストラクトのようなものだ。
タロット占いの占者は、それに具体的な意味づけをするわけだけれど、意味づけした段階で、本来、そこに表れているもっとも重要な「淡い」のようなものを打ち消してしまうように思う。
人が「具体」を求めるのは人情のようなものだけれど、一瞬垣間見えたような「具体」は、たちまち泡のごとく消えてしまう。それを求めることは、消えてはなくなる泡を永遠に求めるようなものだ。
漠然としたものを漠然としたままに、しかし、それがもたらす内的な刺激をとらえるような感覚で見ること。それは確たるものではないけれど、静かな水底にゆっくりと堆積していく砂のように、密やかに降り積もっていく。そして、いつかその重層した「漠然としたもの=淡い」が、心に強い変化をもたらすことになる。
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「タロット」のデザインは明らかに中世の世界をモチーフにしていますが、その体系は古代の思想が色濃く反映されています。とくに、「カバラ」の影響が強く現れているといいます。
紀元前2世紀頃、世俗化したユダヤ教主流派から離れて、ユダヤ民族の原点である荒野へと向かったグループがありました。古来の教義に立ち戻り、清貧な生活を目指した彼らは「エッセネ派」と総称されます。キリストもエッセネ派から派生した一派に属していたとも伝えられ、また「死海文書」を残したことでも知られています。
エッセネ派は、そのまま荒野の中で消えていきましたが、時を隔てて3世紀になると、今度はキリスト教世界の中から「グノーシス派」が現れます。グノーシスは古代ギリシア語で「認識・知識」あるいは「霊知」を意味し、エッセネ派同様に原点に帰って、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求めるものでした。
グノーシス派は、人間存在を本質的に牢獄に閉じ込められた状態にあると考えました。そして、賢い蛇の助力のおかげで、人間は自分が牢獄にいることに気づき、さらに世界認識の知性を得ることによって、その牢獄から脱出できると説きました。さらに、知識とは「神的な光」であり、そここそが人間の真の故郷なのであると。
これは、聖書そのものを否定するものであり、当然のごとくキリスト教会によって大弾圧を受けることになりました。一時は地中海世界全体に広がっていたグノーシス派は、徹底した弾圧により、姿を消します。その教義は、かろうじてマニ教の中で生かされ、か細いながら、長く命脈を保ちました。
カバラは、そのグノーシス派の教義をメタファの形で伝えています。カバラは、古代ユダヤの神秘的な教えや聖典の註釈を集大成したもので、完璧で不易のものであるはずの神がどのようにして世界の創造に巻きこまれるに至ったのかと問い、神は十の「流出物(セフィロト)」を送り出して、そのセフィロトが創造の仕事をしたのだと答えます。
セフィロトとその創造物はすべてシンボルによって示されます。カバラの根幹を成すシンボルは「聖なる樹」という名で知られた図形で、それは、22本の線で結びつけられた10の円から成っています。10の円はセフィロトもしくは神の流出と呼ばれます。
これは、「創造」を、究極の神性から地上の王国への堕落として表わし、魂は下へ向かっての旅を始め、十の「位相」を通って、地上の肉体にたどりつくと記憶喪失の状態となって終わっています。
この「聖なる樹」が、世界=宇宙の全体図となっていて、22本の線はタロットの大アルカナに対応しているというわけです。先に、タロットによる占いは占者のセンスによって決まると言いましたが、「本物の」タロット占者は、タロットとカバラとの秘められた対応関係を把握した上で、さらに個々のカードの意味を引き合わせ、それを占いを求めてきた者に合わせて説いていくわけです。
そして、その占いは、単に吉凶や未来を見るものではなく、堕落した地上の王国からセフィロトを逆に辿って、究極の神性へと向かわせる意図を持っているのです。こうした複雑なシンボルをただ理解するだけでなく、自らの潜在意識を覚醒させるツールとして用いる。それが真の占者なのかもしれません。
(聖地学講座第217回「意識を変えるということ」より抜粋)
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